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ジョン・ケリー国務長官就任アメリカの次のトップ外交官(America's Next Top Diplomat) ウィキリークスが暴露するジョン・ケリー(What the WikiLeaks cables reveal about John Kerry) J・ダナ・スタスター(J. Dana Stuster)筆 フォーリン・ポリシー誌(Foreign Policy) 2012年12月21日 http://www.foreignpolicy.com/articles/2012/12/21/americas_next_top_diplomat http://www.foreignpolicy.com/articles/2012/12/21/americas_next_top_diplomat?page=0,1 ジョン・ケリーが次の国務長官に選ばれるのが当然だと読者の皆さんが考えるなら、それは、ジョン・ケリーだからだ。ジョン・ケリーは27年にわたり、上院の外交関係委員会に参加し、2009年からは委員長を務めている。ジョン・ケリーはジョー・バイデンの後任で委員長となった。上院外交関係委員会委員長として、ジョン・ケリーは世界各国を飛び回り、様々な問題に取り組んできた。ジョン・ケリーは世界各国の指導者たちと会談し、歴代政権の使者として重要な、そして機密扱いのメッセージを世界各国に届けてきた。しかし、多くの会談や交渉が非公開で行われているので、ケリーの実際の外交スタイルを知ることは難しい。 ウィキリークスが暴露した海外電報の中にいくつかヒントがある。ウィキリークスによって暴露された米国務省の公電(2005年から2010年初めにかけてのもの)では、ケリーの海外訪問について言及されている。同時期、ケリーは、プレトリア、イスラマバード、北京、ダマスカスを訪問した。国務省の公電には、訪問の内容を要約した内容が書かれており、ケリー以外の人物の発言も掲載されている。これらの内容は「ケリー上院議員の発言に対応して」「ケリー上院議員がこの問題についてこう質問し、こうこうと返答した」などという形式で書かれている。国務省の公電を読むと、「飛行機で飛び回る忙しい外交官」というイメージが浮かび上がる。 ケリーが長年取り組んできた問題を見ると、彼の外交スタイルの一端が分かる。ケリーは常に難しい問題に取り組んできた。若手の上院議員の頃は、ベトナムでアメリカ軍将兵の捕虜が行方不明になった問題に取り組んだ。最近では、頻繁に中東諸国を訪問した(シャトル・ディプロマシーと呼ばれている)。ケリーは不愉快な人物たちと仕事をすることを避けることはない。例えば、カンボジアのフンセン首相は、カンボジア国内でポルポト派が裁判を受けることに同意するに当たり、ケリーが約10年間、交渉の成功に努力してきたことを賞賛した。ある公電では、フンセン首相の発言を紹介している。その発言は次のようなものだ。「ケリー上院議員は、カンボジア国内でのポルポト派の裁判が成功するように努力してきた」 ケリーは問題から逃げない。自ら関与しようとしてきた。それは、アラブ世界の諸問題への対処を見ても明らかだ。ケリーは頻繁にアラブ世界の各国を訪問してきた。2006年、ケリーは、レバノンのベイルートで当時の連立政権の指導者たちと会談した。そして、ラフィーク・ハリーリー元レバノン首相の暗殺の捜査に対する助言を行った。また、レバノンの野党勢力とも会談した。その後、シリアのダマスカスで、レバノンの野党勢力を支援しているシリアのバッシャール・アル=アサド大統領とも会見した。 気候変動は解決の難しい重要な問題であり、ケリーが関心を寄せている問題である。2007年にバリで開催された気候変動に会する国際会議にケリーは出席した。彼は、少なくとも10カ国(パートナー国のフランスから中国まで)からの代表団と会見した。また、25のNGOの代表者たちとも会見した。ケリーは、気候変動問題で重要な存在である中国に特に注意を払っている。彼は、2009年のコペンハーゲンでの国際会議の開催前に、北京を訪問した。その時ホワイトハウスからのメッセージを携えていた。ホワイトハウスのメッセージは次のようなものだった。それは、「世界はエネルギー基盤の変化を必要としている。そして、持続可能な経済成長の方向に進むことを求めている」というものだった。ケリーは、中国の政府高官たちを動かして、温室効果ガスの排出の測定に関し、従来とは異なる基準を受け入れてもらおうと努力した。ケリーと中国政府高官との会話は最初から好感触だった。ある公電には次のようにある。「ケリーと中国の副首相との会話が始まると、雰囲気は楽観主義に包まれた。ケリー上院議員と中国の副首相との間で、率直な意見交換が行われ、双方の国益についても率直に語られた。この会談で、中国側は、アメリカのオバマ新政権が気候変動を米中二国間に存在する問題で最優先のものだと考えていることを理解したであろう」しかし、ケリーの訪問から7か月後、コペンハーゲンで国際会議が開催された。会議では、ケリーが北京で議論した諸問題の議論だけに終始し、何も進展がないままに終わった。 しかし、ウィキリークスで暴露された公電では、ケリーが騙されやすい人物であるとは描かれていない。中国政府高官たちと気候変動について話している時、ケリー上院議員は、他国には、気候変動について、中国やアメリカが参加しなくても解決できるように動くよう圧力をかけていた。2008年初めに気候変動について国際的な議論が始まった時、議論の結果が自分の選挙に不利な要素となることをケリーは恐れた。「国際的議論が進み、ある程度の合意が達成されれば、アメリカは議論の結果を尊重し、その合意に基づいて国内法を整備する」とケリーは述べた。しかし、この発言はあまりに楽観的、非現実的すぎる。 アラブとイスラエルとの間では微妙な和平交渉が行われている。この交渉に対するケリーの関わりは賛否両論を引き起こすことになった。これはウィキリークスが国務省の公電を暴露したことで明らかになった。2009年、ケリーは、レバノンの大統領に対して、「アメリカは和平交渉が長引きすぎ、一刻の猶予もないと感じている」と語った。レバノンの首相との会見で、ケリーは、「ジョージ・ミッチェルが特使に任命されたのは、アメリカが和平達成のために積極的に関与するサインである」と述べた。ケリーはアラブの指導者たちに対して非現実的な約束をした。シリアの副大統領に対して、アメリカの政策は、イスラエルの新たな入植地の拡大に反対する内容だと語った。また、締結されるだろう和平合意の枠組みの概要を話した。そこで、パレスチナの首都は東エルサレムになるだろうと語った。国務省の公電が暴露されたとき、ケリーはカタールの首長との会見の内容が明らかにされ、批判を受けることになった。 ケリーが収めた成功の中で知られていないのが南アジアに関することである。ケリーは、インドのマンモハン・シン首相、首相の安全保障担当補佐官M・K・ナラヤナンと会見した。この会見で、ケリーは、アメリカとインドとの間で民生用の核技術に関する対話を行うように提案した。そして、米印間の対話の結果が米印原子力協力協定となった。こうした議論の中で、ケリーは慎重な姿勢を崩さなかった。米印原子力協力協定は、インドとアメリカ上院の支持だけでなく、国際機関やインドの一般国民の支持を得た。2008年にムンバイでテロ攻撃が起きた時、ケリーは、インドとパキスタンとの間で緊張が高まらないように調停者として努力した。2009年、ケリーは、アフガニスタンのハミッド・カルザイ大統領を説得し、大統領選挙の決選投票を行うことに成功した。この時のアフガニスタンの大統領選挙は、1回の投票では結果が決まらなかった。そして、カルザイ大統領が決選投票で勝利をしたと時、ケリーは対抗馬の候補に電話をし、潔く敗北を受け入れるように説得した。 ケリーはパキスタンに関しては運に見放された。ケリーは、ケリー・ルーガー援助法のようなイニシアチブを通じて、アースィフ・アリー・ザルダーリー大統領の権力の確立と文民政府の樹立を支援することに奮闘した。しかし、パキスタンの強力な軍部の抵抗にあり、ほとんど前進はなかった。オサマ・ビン・ラディンがパキスタンのアボッターバードの隠れ家で発見された時、ケリーが行ってきたパキスタンの文民政府の力の確立に向けての努力は行き詰ってしまった。 ケリーは、アメリカの国内と国外で気候変動に対処するイニシアチブを創設した。また、レバノン国内に特別法廷を設置することに努力を傾けた。これは政治的な難問となった。そして、これがハリリ政権の崩壊につながった。そして、それから8年過ぎても、ラフィーク・ハリーリー元レバノン首相の暗殺に関して、解明が全く進んでいない。中東の和平合意に向けて、ケリーはアラブ諸国の指導者たちからの助言を受け入れた。彼らは、イスラエル・パレスチナ間の紛争を終息させるには、イスラエルとシリアとの間の主張の相違をまず解決することだとケリーに助言した。ケリーは、この助言を受けて、シリアのアサド大統領と何回もダマスカスで会談を行った。 アサド大統領との会見で、ケリーは厳格さを崩さないが、優しさを出していた。2006年12月、ケリーはアサド大統領に対して、和平プロセスに関して積極的な方向に向かっていること、イラク国内に流入する民兵の流れを止めていることを評価していると述べた。また、アサド大統領は既に明確な方向転換を行ったのにブッシュ政権がそれを評価しないという懸念を持っていたが、ケリーはこの懸念を払しょくしようとした。ケリーは、会談(meeting)の締めくくりで、アサド大統領に対して警告(warning)を発した。ケリーは、「イランが優勢になっていると考えている人たちは間違いを犯している」と述べた。また、暴露された公電から紹介する。「ケリーはアサド大統領に対して、中東地域で起きている事件を見て、自分の政権が安泰だという過剰な自信で状況を見誤らないようにすべきだと警告した。現在の状況から見て、アサド政権の将来は悲観的なものであるとも述べた」 2010年2月、ケリーはカタールの首長と会談した。その中で、ケリーはアサド政権について口にしている。ある公電によると、ケリーは、「ダマスカスを訪問し、アサド大統領が変化を望んでいることは分かった」と述べた。これは、シリアの緊密な同盟国であるカタールに対して、アサドにより圧力をかけるように求めたことになる。より率直な会話の中で、ケリーは、「アメリカはシリアが大きく変化することは期待していないが、会話を始めることは有効だと考えている」と述べた。 ジョン・ケリーが上院で承認を受けたら、ケリー国務長官の仕事は会話を始めることだ。ケリーは全ての相手(良い相手ともそして悪い相手とも)と交渉を始めている。ケリーの努力が全て実を結んできたということはない。そして、ケリーは、国務長官に就任したら成功確実という訳ではない。しかし、彼のこれまでの業績を見ると、私たちは、彼が成功のための努力をするだろうということだけは分かる。 ※J・ダナ・スタスター:フォーリン・ポリシー誌研究員。 (終わり)
by Hfurumura
| 2012-12-24 00:31
| アメリカ政治
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