翻訳、評論の分野で活動するSNSI研究員の古村治彦のブログ
by Hfurumura
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ブログの会社を引っ越しました

古村治彦(ふるむらはるひこ)です。

この度、ブログ「古村治彦の酔生夢死日記」のブログの会社を、エキサイト・ブログからライヴドア・ブログに変更することにしました。その理由は、ある人にライヴドア・ブログに引っ越すことを勧められたからです。

これまで、更新を怠ってきましたが、これからは心機一転、定期的に更新してまいりたいと思います。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

新しいURLは、「http://suinikki.blog.jp/」となります。
※新しいブログへは、こちらからもどうぞ。

古村治彦拝
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by Hfurumura | 2013-11-14 15:10

フランシス・フクヤマ著『政治の起源』を宣伝します

本日は、フランシス・フクヤマ著『政治の起源』(会田弘継訳、講談社、2013年)をご紹介いたします。本書は、『歴史の終わり』で有名になったフランシス・フクヤマの畢生の大事業である政治秩序の起源から発達を探った研究成果です。

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私は、今回、第5章から第14章の下訳を担当しました。下訳というのは翻訳の世界では良くあるものなのですが、翻訳者の為に、事前に翻訳をしておきまして時間の節約を行うというものです。今回、下訳とは言え、フクヤマの新刊の翻訳に関わることができたことは大変に光栄なことであります。

皆様には是非、手に取ってお読みいただきたいと存じます。どうぞよろしくお願い申し上げます。

今回は、欧米の新聞などに掲載されました書評を皆様にご紹介いたします。参考にしていただけましたら幸いです。

※ウェブサイト「副島隆彦の論文教室」に掲載した宣伝文へは、こちらからどうぞ。



===========

①エコノミスト誌 2011年5月31日

http://www.economist.com/node/18483257

「歴史に関する諸理論」

11世紀にカトリックは聖職者に対して禁欲を強制したが、これが他の地域に先駆けてヨーロッパに法の支配を生み出した。その理由は何であろうか?その答えは、フランシス・フクヤマの刺激的な新刊の中にある。禁欲主義はローマ法王グレゴリー七世によって制度化された重要な改革の一つであった。禁欲主義によって、教会法は発達し、王と言えど協会法には従わねばならないという考えが生み出されたのだ。グレゴリー七世は、神聖ローマ皇帝ヘンリー四世を屈服させたことで名前が残っている。カノッサにおいてヨーロッパで最強の人物ヘンリー四世を自分の前で跪かせて懺悔させたのだ。

禁欲主義は、カトリック教会名部の腐敗とタダ乗りに対する戦いにおいて重要であった。この2つは世襲では必ず起こるものであった。禁欲主義改革はカトリック教会が「近代的で、階層的、官僚的で法に支配された機関」と呼ぶものへと進化するための道徳的進歩をもたらした。この「近代的で、階層的、官僚的で法に支配された機関」は、精神面での権威を確立した。これが世俗国家の確立のための土台となるルールを生み出すことになった。

サミュエル・ハンチントンは40年以上前に政治秩序に関する古典的名作を書いた。フクヤマはハンチントンの生徒だった。フクヤマは、政治秩序起源の研究を小規模の狩猟グループから部族への変化の研究から始めた。それがやがて「リバイアサンの登場」、つまり強制力を持つ国家へと変化していった。農業を基礎とする社会の複雑さが増す中で国家は登場した。更には、規模が拡大し続けていった戦争を遂行するために組織の面の必要性からも国家は生まれたのだ。

フクヤマの知識の豊富さには目を見張るものがある。加えて、彼は中国、インド、イスラム世界、ヨーロッパ各国を旅し、良い政治秩序の主要な構成要素を探し求め、それぞれの地域でどのようにして、そしてどうして政治秩序が生まれ、消えていったかを調査した。
フクヤマは、政治秩序の重要な3つの要素として、強力な国家、社会全体に対する法の支配、支配者の行動を制限する説明責任を挙げている。

フクヤマは史上初の近代国家は、紀元前221年に成立した中国の秦であると確信している。秦が生み出した多くの管理メカニズムはそれから500年間を通じて発達した。中国全土が小国に分立し、それぞれが相争いながらも合従連衡をするという東周時代まで続いた。このような管理メカニズムには、徴兵された軍隊とそれを率いる実力主義で昇進した(貴族中心ではない)指揮官、洗練された徴税システム、そして家族のつながりではなく才能を重視して採用される官僚たちが行政を司るといったことが含まれていた。秦は更に改革を勧め、全体主義に近い、その前身とも言うべき独裁政治制度を確立しようとして、社会の全ての部門に非情な変革を強制した。

秦の急進主義は結局のところ、秦の滅亡を誘発し、その後、漢王朝が取って代わった。韓王朝は秦よりも長く続いた。漢は貴族エリートたちと妥協し、復活した儒教の正当性を認めた。漢は400年以上続いた。しかし、フクヤマが「悪帝問題」と呼ぶ問題と人間の思考傾向そのものによって滅んだ。富、力、地位を与える基準に親族関係を据えたことで漢は滅んだのである。フクヤマは次のよう書いている。「中央集権的な国家の強さと家族主義のグループの強さとの間には負の相関関係がある。部族主義は、近代国家が生み出された後でも、政治組織の決まった形として存続した」

本書の大部分のページで描かれているのは、強力な統一国家を目指す世界各地の支配者たちの間の争い(軍事的な支配がこの当時の支配者たちの目的であった。それは技術の発達よりも征服ことが豊かになる方法であったからだ)と、支配者たちと親族集団との間の争いのことである。親族集団は支配者たちが目指す統一国家を崩壊させる力を持っていた。中国の歴代皇帝たちは、宦官を高い地位に就けることを好んだ。8世紀のアッバース朝からエジプトのマムルーク朝とオスマントルコまで、イスラムの歴代支配者たちは身内優先の贔屓と部族間の争いを減らすために軍事奴隷制度を確立した。

マムルークは一代限りの貴族で、スルタンにだけ忠誠を誓った。ジャニサリーはオスマントルコ帝国の軍事奴隷の中のエリート部隊であったが、結婚は認められなかった。しかし、2つの制度とも空洞化していった。それはマムルークもジャニサリーも利益団体に変質し、彼らがそれを守ることを目的にして創設されたはずの中央集権化した国家を滅亡させるだけの力を蓄える結果となった。縁故主義が再び姿を現したのである。

フクヤマは、そこまでの絶対王制ではなかった一七世紀のフランスと内戦と1688年に名誉革命が起きたイギリスとの間で興味深い比較研究を行った。イギリスは世界で最初の望ましい政治秩序の構成要素が結合した場所である。デンマークがそれに続いた。政治秩序の構成要素とは、強力な国家、法の支配、そして説明責任の三つである。フランスが抱えていた問題は、王が貴族たちの法的特権に挑戦する自信を十分に持っていなかったことであった。しかし、王も貴族も農民たちと勃興しつつあった商人たちに対する法の支配の適用は拒絶する点で一致していた。農民も商人も徴税を通じて国王が戦争に必要としていた資金を提供していた。その当時のイギリスは民主政治体制と言えるものではなかったが、慣習法の発達、立憲君主制のための政治的条件の確立、経済発展によって社会全体で説明責任が確立されていた。

この第一巻目はフランス革命までを取り上げたものだ。第二巻目はそれから現在までを取り上げるもので執筆中だそうだ。この一巻目の内容は、私たちの近代国家と近代国家の成り立ちの理解にとって重要なものを提供してくれる。例えば、中国には中央集権化した賢明な官僚たちが存在するが、法の支配はまだ弱く、説明責任という考え方もない。フクヤマは、毛沢東という存在が、中国は未だに「悪帝」問題から免れられないでいることを示していると主張している。一方、インドの国家は弱体であるが、中国に比べて説明責任は確立され、法律も整備されている。

フクヤマはまたわたしたちにこの春に起きたアラブの春が政治秩序に関する、彼の3つの試験に合格しているかどうかの尺度を与えてくれる。テストの成績は良くはなかったが、落第というものではなかった。フクヤマは今でも私たちに俯瞰図を与えてくれる人物である。彼は私たちに「歴史の終わり」という大きな考えを提示した。しかし、彼は同時に細かい点にも目配りをしている。政治理論の本というととかく難しくて読み進めるのも大変だが、この本はそうではない。

(終わり)

②ガーディアン紙 2011年5月12日

http://www.theguardian.com/books/2011/may/12/origins-political-order-francis-fukuyama-review

「書評:フランシス・フクヤマ著『政治の起源』」

デイヴィッド・ランシマン(David Runciman)筆

秩序だった、活発な活動を行う社会を形作るのは要素とは何か?フクヤマはこの問いに答えを持っているのか?

フランシス・フクヤマはこれからも常に『歴史の終わり』の著者として知られていくだろう。『歴史の終わり』という本を書いたことで、フクヤマには政治的な楽観主義者という評判が付いて回る。「フクヤマは、歴史がその辿るべきコースを辿っていけば全てが民主政体にたどり着くと確信しているのだ」というのである。実際のところ、フクヤマは皆さんが考えているよりもずっと悲観的な思想家である。常に何か悪い方向に行くのではないかと考えている。『歴史の終わり』は1992年に出版された。綺麗な装丁の本ではあったが、1989年に出された「歴史の終わり?」論文よりもだいぶ中身が暗いものになっていた。『歴史の終わり』は、フクヤマの師の一人で、シカゴ大学の哲学教授で保守派のアラン・ブルームの影響を色濃く反映していた。ブルームは、アメリカ社会が知的な相対主義とポップカルチャーの海に沈みつつあるとかなえた。そして、フクヤマは、1989年以降の民主政体の勝利もまたそれらによって脅かされると考えた。イデオロギー上の激しい戦いがなくなったことで、人々にとって政治は関心事ではなくなるだろうというのであった

フクヤマの新刊は彼のもう一人の師である、ハーヴァード大学の保守的な政治学者であったサミュエル・ハンチントンの影響を強く受けている。ハンチントンは『文明の衝突』によって世界的に知られている。しかし、彼の主要な関心は政治秩序にあった。政治秩序はどのように構築され、どのように崩壊するのかということに彼は関心を持った。ハンチントンは、より良い秩序を持つ社会に至る道筋には2つの危険なものが存在すると考えていた。より良い秩序に到達できない理由は、社会が血なまぐさい闘争と内戦が起きる条件を超越できないことと、ある型に固執して、新たな脅威や挑戦に対処できないことである。フクヤマはこの枠組みを民主的な秩序に関する問題に適用している。いくつかの社会では民主的で安定した秩序に到達できるのに、貴族政に留まる社会があるのはどうしてだろうか?そして、民主政治体制は直面する新たな脅威や挑戦に対処できるのであろうか?

最初の質問に答えるために、フクヤマは人間社会の起源にまで遡る。これを人類以前の歴史と呼ぶのはやり過ぎだと思われる。最初の数ページは猿のことが書かれ、それから初期人類の物語が書かれている。人類は常に緊密な関係を持つグループに組織化されている。ルソー流のパラダイスなど存在しなかった。精神的に自由な個人が原始的な森の中で自由に暮らしているなどと言うことはなかった。問題は最初の人類社会が人々の緊密過ぎる関係の上に成り立っていたということである。これらは基本的に親族関係を基にしたグループであり、フクヤマが「いとこたちの暴政」と呼ぶ状態を生み出した。人間は親族のためなら大体のことをやる。そして、親族でない人間に対してもたいていのことをやる(レイプ、強盗、殺人)。これが世界でいつも起きている争いから、大量の人間が死亡する規模な戦争までに共通する理由となる。

親族関係の陥る罠から抜け出す方法は国家(フクヤマは中央集権化した政治的権威と呼んだ)を作ることである。これには家族のしがらみを打ち破る必要があった。国家はフクヤマが考える政治秩序の基礎となる3つの柱の一つである。政治秩序にとって強力な国家だけでは十分ではない理由は、政治的な権力だけでは親族関係がもたらす問題を解決できないからだ。それどころか、政治権力が親族関係の利益のために使われてしまうことになる。
強力な支配者は自分の力を親族の利益のために使用する。このような現象は古代世界から現在のリビアまでを考えてみれば理解しやすい。従って、国家の統治には法の支配が必要となる。法の支配によって政治権力と腐敗には制限が加えられる。しかし、法の支配自体が政治秩序を不安定化させることもある。それは必要な時に国家が決定的な行動を取る能力を削いでしまうこともあるし、非国家組織に過度の自由裁量を与えてしまうこともあるからだ。よって、第三の原理である説明責任を負う政府が必要となるのだ。これは私たちが民主政治と呼んでいるものだ。民主政体では強力な国家は維持されるが、人々は支配者が間違いを犯した場合に彼らを交代させることができる。

フクヤマは私たちが政治秩序の3つの原理をそれぞれ別のものであり、別々に機能を果たすことができるものとして扱い過ぎていると考えている。もしくは、私たちは民主政体を賞賛するが法の支配がなければ社会の分裂を深めるだけだということを忘れている。また、私たちは法の支配を賞賛するが強力な国家がなければ政治的な不安定をもたらすことになることを忘れている。しかし、フクヤマは社会全体が同じ間違いを犯すとも考えている。フクヤマは良い政治秩序と「まあまあ良い」政治秩序との間を区別している。「まあまあ良い」政治秩序は政治秩序の3つの原理のうちの1つか2つが実現し、安全であるという幻想が存在する時に成立する。例えば、古代中国で強力な、中央集権的な国家が誕生したのは、西洋よりも早かった。国家が成立した理由は、長年にわたって続く内戦問題と戦うためであった。しかし、中国に誕生した国家は強力過ぎた。国家は領主を打ち倒したが、同時に初期市民社会や説明責任という考えを壊してしまった。従って中国は政治秩序確立に関しては西洋に先行していたが、それがまた遅れを生み出したのだ。それは、強力過ぎる権力はすぐに集権化した。そして、フクヤマはこれが現在の中国政治の独裁的な側面の理由であると確信している。


もう一つの国家はうまくいった部分とうまくいかなった部分があった。その国はハンガリーである。13世紀、イギリスでマグナカルタが成立して7年後、ハンガリーにも独自のマグナカルタ制定の時期が到来した(これは「黄金の雄牛」と呼ばれる)。貴族たちが王の示威的な権力に対して法的な制限を加えることができた。それでは、どうしてハンガリーは、イギリスのように自由と憲法に則った統治を確立できなかったのだろうか?それは、貴族たちが余りにも多くのものを手にしたからだ。彼らは王を弱体化させ過ぎ、自分たちが望むものは何でも手に入れることができ、何でもできるようになったからだ。これは、貴族たちが自分たちの親族を富ますために農民を搾取することができたということである。国家の力を無力化させてしまったために、ハンガリーの貴族たちは安定した政治秩序構築の機会を失い、自分たちの力を強大化させるだけにとどまったのだ。

フクヤマは、人類社会が政治秩序の構築に成功する方法よりも政治秩序の構築に失敗することの方に興味を持っている。彼が本当に答えたいと思っている疑問は、ハンガリーがどうしてイギリスのようにならなかったのかというものではなくて、イギリスがどうしてハンガリーのようにならなかったのかというものだ。彼の答えは基本的に幸運に恵まれるかどうかというものである。西ヨーロッパの端にあるイギリスで政治秩序の構築に成功したのは、いくつかの偶然が重なったためである。宗教、法律面での改革、才能に恵まれた行政官がうまくミックスされ、それに17世紀に起きた内戦と疫病によって人々は、そうした好条件をバラバラにしてしまうのは得策ではないと考えるようになった。

フクヤマは私たちに対して、良い政治社会というものは実現が難しく、多く尾条件が揃なければならないものであることを記憶して欲しいと思っている。しかし、彼はこのことからポジティヴなメッセージを導き出している。政治秩序を構築することは偶然の要素が多いということは、そこに行きつくまでには様々な経路が存在する。必ず政治秩序を構築できるという保証がある社会など存在しない。しかし、だからと言って、絶対に構築できないという社会も存在しない。中国であってもそうだ。このような積極的なメッセージには納得できないものも含まれているが、本書『政治の起源』全体の内容は興味深いものだ。フクヤマはどっちつかずの議論を行うことがよくある。政治秩序は基本的に、数世紀にもわたる政治闘争の結果生まれた偶然の産物である。しかし、そのことを知れば政治秩序を確立することはより容易になる。それはどのようにしたら可能か?それには、自分の運を良くすることしかない。更に言えば、政治秩序の話は、「ニワトリが先か、卵が先か」の話に集約される。イギリスは1688年に名誉革命を達成したが、それは、イギリスが比較的秩序が整った社会であったからだ。そして、私たちは、名誉革命によってイギリス社会が秩序だった社会になったと教えられる。

もう一つの問題は、フクヤマガ最初に提示した2番目の疑問に対して答えを提示していないことだ。安定した民主社会が一つの様式に陥ることを止めるものは何か?政治秩序は安易な自己満足と安全を生み出す。フクヤマはこれもまた3つの原理の上に成り立っている社会にとっても問題であることは認識している。しかし、3番目の原理が希望を与えてくれると主張している。政治的な説明責任の意味するところは、政府が失敗すれば、私が政府を変えることができるということである。しかし、これは上辺だけのことで建前であり、誰も信用していない。これはまるで政府が交代するということは、根本的な変化(気候変動、債務、中国の台頭)が起きている時に、デッキチェアを動かすくらいのことのように見える。『政治の起源』は2巻出るシリーズの1巻目である。そして、フクヤマによると、2巻目は、フランス革命から現代までを網羅した内容になるということである。1巻目はフランス革命までで終わっている。 しかし、このような野心的な本にはありがちだが、解決したいと思っている基本的な問題に対して、十分な回答を出せていない。フクヤマは現代の社会科学の言葉を借りて彼が本当に興味を持っていることを説明している。彼が興味を持っているのは、どのようにすればデンマークのような国にまで到達できるのか。つまり、安定していて、反映していて、現在世界最高のレストランがある国になるにはどうしたら良いのかということである。しかし、フクヤマが本書で描写している歴史はこの疑問に対する答えとはならない。王子の出てこない『ハムレット』のようなものなのである。

(終わり)

※ウェブサイト「副島隆彦の論文教室」に掲載した宣伝文へは、こちらからどうぞ。
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by Hfurumura | 2013-10-29 21:20

スティーヴン・ウォルトによる論文「イスラエル・ロビー」5周年についての論文

古村治彦です。

今回は、『イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策』の共著者の一人、スティーヴン・ウォルト(Stephen M. Walt)による、論文「イスラエル・ロビー」発表5周年で、何が変わったかについての論文をご紹介します。

ウォルトによると、アメリカではタブーとして議論されてこなかったイスラエル・ロビーについて、議論されるようになり、批判も行われるようになったということです。

論文「イスラエル・ロビー」、著書『イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策』については多くの批判がなされましたが、彼らが望んでいた、イスラエル・ロビーについて議論をするということは始まっているようです。彼らの最終的な目的はまだ達成されていません。これが達成されるかどうかを著者である2人とともに見守っていきたいと思います。

それでは拙訳をお読みください。

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=====

論文「イスラエル・ロビー」が発表されて5年、何かを変えたか

スティーヴン・ウォルト(Stephen M. Walt)筆
2011年3月25日
フォーリン・ポリシー(Foreign Policy)誌

5年前の今週、ジョン・ミアシャイマーと私は論文「イスラエル・ロビー」を「ロンドン・レヴュー・オブ・ブックス」誌に発表した。私たちの目的は、論文(とその後に本)を書くことで、イスラエル・ロビーがアメリカの外交政策に与える影響を議論することはタブーとされてきたがそのタブーを打ち破り、イスラエル・ロビーが人々が自由にそして穏やかに話すことができる話題となるようにすることだった。私たちは、イスラエル・ロビーが作り上げてきた、アメリカ政府との間の「特別な関係」がアメリカとイスラエル(パレスチナには言及しない)に不利益を与えていると確信している。私たちは、イスラエル・ロビーについて開かれた議論が行われることで、アメリカの中東政策がほとんど全ての人々にとってより良いものとなるように願っていた。

私たちの試みは成功したのだろうか?

私たちの論文と本が議論を巻き起こしたことは疑問の余地はない。それは多くの人々の努力のおかげだったし、中東で多くの不幸な出来事が起こったからでもある。私たちは、私たちに対して敵意に満ちた批判をしてきた人々に対して感謝している。彼らは、私たちの論文や本の内容が誤りであるとし、私たちを反ユダヤ主義者であると指弾してきた。彼らのこうした努力は、私たちの主張の多くが正しかったことを証明している。私たちはこうした反応が起こることを予想していたので、全く驚かなかった。しかし、残念だったのは、議論の最初の段階で、現実に即した主張ではなく、多くの誤った批判がなされたことだった。

初期にはあまりにも的外れな主張が行われたが、イスラエル・ロビーとその影響力についての議論は 、アメリカの一部でしか行われていなかったものが、主流のメディアでも行われるようになってきた。ジョン・スチュワート、アンドリュー・サリバン、グレン・グルーンウオルド、デイビッド・レムニック、ニコラス・クリストフといった人気のコメンテーターたちが書いたり話したりしたものを読めば、彼らがアメリカの中東政策におけるイスラエル・ロビーの影響を認めていることは分かる。ニューヨーク・タイムズ紙やロサンゼルス・タイムズ紙のような大新聞の編集委員たちは、アメリカ政府に対し、イスラエルへもっと強硬な態度で臨むように求めている。アメリカの中東政策に関する記事で、「イスラエル・ロビー」が重要な存在であると言及されることが多くなった。そして、
イスラエル・ロビーに対する批判も見られるようになっている。デイビッド・フラムのような強硬なネオコン派たちでさえイスラエル・ロビーに属する団体の強力さを認めるようになっている。サラ・ペイリンは、共和党ユダヤ連盟(Republican Jewish Coalition)からの支援を受けずに単独でイスラエルを訪問した。それに対して、フラムは、彼女の選択は間違いで受けられるはずの政治的な利益を受けられないだろうと批判した。私たちの本と記事だけで議論の方向性が変わった訳ではないのは確かだが、一定の役割を果たしたのは間違いのないところだろう。

私たちが本を書いた時、私たちは、アメリカ国内、特にユダヤ系アメリカ人社会の親イスラエルの人や団体が私たちの本を読んで、自己反省をしてくれることを願った。それは何故か?利益団体はアメリカの民主政治体制で中心的な役割を果たしており、アメリカの行動に大きな影響力を持つ利益団体の態度や行動を変えることでアメリカの対イスラエル政策は変えることができるからだ。

私たちは本の中で新しい「イスラエル・ロビー」が必要だと書いた。私たちの主張する、新しいイスラエル・ロビーとは、イスラエルとアメリカの長期利益を実現するための政策を主張するものだ。私たちは繰り返し強調しているが、問題は、イスラエルの利益のために活動する強力な利益団体が存在しないということではない。問題は、利益団体が誤った政策志向を持つ個人や組織によって支配されているということだ。より賢い政策を志向する「親イスラエル」の強力な利益団体が出現することを私たちは待ち望んでいる。

(終わり)
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by Hfurumura | 2011-04-04 15:16

手嶋龍一氏の報道ステーションでの発言から考える

昨日、2011年3月7日、テレビ朝日で午後9時54分から放送された「報道ステーション」(古館伊知郎氏が司会)のトップニュースは当然のように前原誠司外務大臣の辞任でした。解説者として、手嶋龍一氏が出てきました。元NHKワシントン総局長で、2001年にアメリカで起きた同時多発テロ事件の時にアメリカからニュースを伝え続けました。手嶋氏は国内問題よりも国際問題に大変強い印象があります。アメリカだけでなく、世界で起きた事件の解説者として出てきます。

ここから分かることは、前原外相の辞任は国内問題(在日外国人からの献金を受けていたこと)というだけではなく、国際的な側面を持つ事件だということです。

手嶋龍一氏は、「前原氏はクリントン国務長官から全く評価されていなかった。外交の相手としては見られていなかった」と発言しました。

それに対して、司会の古館氏は「ですが、クリントンさんは前原氏を高く評価するという発言をしていましたよね」と質問しました。

それに対して手嶋氏は、「それは文字通りに“外交辞令”です。外交においては相手が利用できるとなれば最大限の賛辞を送るものです。しかし、クリントン国務長官が前原さんを評価していた証拠はどこにもありません」と答えました。

紹介した手嶋氏の発言は、それまでのマスコミの論調とは全く逆のことでした。2010年9月7日、尖閣諸島沖で中国の漁船と日本の海上保安庁の巡視船2隻が衝突するという事件が起きました。この際、前原氏は、中国側に対して強硬な態度に出るとともに、アメリカ側に、「尖閣諸島は日米安保条約適用対象である」ということを確認させたということで、大変な評価を受けました。「いざとなったら、アメリカが守ってくれるのだ」ということを確認した、ということで単純に喜んで良いとは私は思いませんが、「前原氏は大変な戦果を挙げた」ということになりました。以下に貼り付けた新聞記事をお読みください。

(新聞記事転載貼り付けはじめ)

・「「尖閣は日米安保適用対象」クリントン長官、明言 日米外相会談で」

2010年9月24日付 MSN産経ニュース

 【ニューヨーク=酒井充】前原誠司外相は23日午前(日本時間同日夜)、ニューヨークでクリントン米国務長官と外相就任後初めて会談した。クリントン氏は沖縄・尖閣諸島付近で海上保安庁の巡視船と中国漁船が衝突した事件に関連して、尖閣諸島は日米安全保障条約の適用対象であるとの見解を強調した。今月7日の事件発生以来、米側がこうした見解を直接、日本側に明言したのは初めて。海洋権益を拡大する中国に対し、日米両国が足並みをそろえて牽(けん)制(せい)した格好だ。

 前原氏は約50分間に及んだ会談で、衝突事件について「東シナ海に領土問題はない。日本の国内法にのっとって粛々と対応する」と述べ、日本政府の対応を説明した。その上で、尖閣諸島を日米安保条約の適用対象としている米側の従来の立場に謝意を示し、日中間で問題解決に取り組む決意を示した。

 これに対し、クリントン氏は尖閣諸島について「明らかに日米安保条約が適用される」と語った。日米安保条約第5条は「日本国の施政の下にある領域」で「いずれか一方に対する武力攻撃」があった場合に、「共通の危険に対処するように行動することを宣言する」としている。

 ただ、クローリー米国務次官補(広報担当)は、尖閣諸島の領有権が日中両国のどちらにあるかについて、米国は立場を明確にしないとした上で、外相会談でクリントン長官が、日中両国の対話強化による衝突事件の早期解決を求めたことを明らかにした。

 このほか、会談では日米同盟がアジア太平洋地域の平和と安定に欠かせないとの認識のもと、同盟深化を図ることで一致。米軍普天間飛行場(沖縄県宜(ぎ)野(の)湾(わん)市)移設問題では、前原氏が同県名護市辺野古を移設先とする5月の日米共同声明の実現に向けて「しっかり対応していく」と述べ、米側の理解を求めた。

 これに対し、会談に同席したキャンベル米国務次官補(東アジア・太平洋担当)は「移設問題も重要だが、もっとグローバルなテーマも日米の戦略対話でしっかりやっていこう」と語った。北朝鮮の核開発問題に対し日米が連携して解決に努力することや核開発を続けるイランへの制裁で協調することでも一致した。日本側が削減を求め、米側が難色を示す在日米軍駐留経費の日本側負担(思いやり予算)の問題は話題に上らなかった。

(新聞記事転載貼り付け終わり)

上の新聞記事にもあるように、クリントン国務長官は尖閣諸島は日米安保条約の適用対象であると認めています。しかし、クリントン氏の部下であるクローリー国務次官補は、「尖閣諸島の領有については日中どちらかに権利があるのかをアメリカははっきりさせない」としています。これは、衝突もあるだろうが、外交できちんと解決することを求めるアメリカ政府からのシグナルです。外交は硬軟の使い分けができなくてはならず、激しく非難している相手ともクールに交渉することが重要です。アメリカ側は期待したものと言えます。それでは次の新聞記事をお読みください。

(新聞記事転載貼り付けはじめ)

・「横浜のAPEC閣僚会議を欠席 クリントン米国務長官」

2010年10月22日付 MSN産経ニュース

 クリントン米国務長官が、11月に横浜市で開かれるアジア太平洋経済協力会議(APEC)の閣僚会議を日程上の都合から欠席することが21日、分かった。複数の日米関係筋が明らかにした。

 クリントン長官は横浜で前原誠司外相と日米外相会談を行う予定だったが、不可能になったため、かわりに27日にハワイで会談することが決まった。

 米国が来年から東アジアサミットに正式参加するため、クリントン長官は今月30日にハノイで開かれる同サミットに特別ゲストとして出席する。その後、カンボジアやマレーシアなどを歴訪し、オーストラリアで外務、防衛担当閣僚による安全保障対話(2プラス2)にも参加する予定で、APECに出席できなくなった。(共同)

・「前原・クリントン会談、日米同盟強調し中国をけん制」

2010年10月29日付 AFPBBNews

 【10月29日 AFP】前原誠司(Seiji Maehara)外相とヒラリー・クリントン(Hillary Clinton)米国務長官は27日夜、ハワイ(Hawaii)で会談し、日米同盟関係を再確認するとともに、中国からの輸出が滞っているレアアース(希土類)の供給源多角化を目指す方向で一致、外交問題における中国の最近の強硬的態度に連係して対処する姿勢を示した。

 会談後の共同会見でクリントン長官は、「(日米)同盟は、アジア太平洋地域における米国の戦略的関与の基軸」と言明。数十年間にわたって域内の平和を支え、両国の繁栄をうながしてきたとの考えを示した。一方の前原外相は、日本の防衛において2国間協力を確認するためさらに協議を深化させたいと述べた。

 両外相はまた、さまざまな「周辺事態」に対処していく必要性に触れた。

 中国が領有権を主張している沖縄県尖閣諸島(Senkaku Islands、中国名:釣魚島)についてクリントン長官は、日本人記者の質問に答え、日本の領土への攻撃に対する米国の防衛義務を定めた「日米安保条約第5条の範囲に尖閣諸島が入ることを、再度明確にしておきたい」と明言。「日米同盟は、米国が世界各地で結んでいる同盟関係の中でも最も重要なものの1つだ。日本国民を守るわが国の義務を重視している」と続けた。

 ハイテク製品などの製造に不可欠なレアアース(希土類)の供給源については、中国が輸出をほぼ独占している状況から脱却し、中国に代わる供給源を開拓する重要性をともに強調した。(c)AFP

(新聞記事転載貼り付け終わり)

横浜でのAPEC外相会議は前原氏が議長で、外交の晴れ舞台ですが、大変残念なことにクリントン国務長官は横浜まで来ることができませんでした。アジア諸国を歴訪していたにも関わらず、です。それは、緊急に話し合うこともなく、何が重大な決定がなされる訳ではない会議に出る必要はないし、日本には中国との関係を良くするという課題を与えているので、APECではそれをやるようにということだったのでしょう。それでもクリントン国務長官は、前原氏と話すために時間を作っています。そこで途中経過などを話したものと思われます。そして、中国に対して強硬な姿勢を強調して、前原氏を援護しています。しかし、そうした動きも少しずつ変化していきます。次の新聞記事をお読みください。

(新聞記事転載貼り付けはじめ)

・「日米外相、共通戦略目標の見直し合意 中国台頭など念頭」

2011年1月7日付 朝日新聞電子版
2011年1月7日11時54分

 【ワシントン=鶴岡正寛、伊藤宏】前原誠司外相とクリントン米国務長官は6日午後(日本時間7日未明)、米国務省で会談した。中国の海洋進出や北朝鮮情勢など安全保障環境の変化を受け、次回の外務・防衛担当閣僚会合(2プラス2)で、2005年策定の「共通戦略目標」を見直すことで合意した。菅直人首相が今春訪米し、オバマ大統領と発表する共同声明に盛り込みたい考えだ。

 日本側の説明によると、最近の東アジア地域の安全保障環境を踏まえて「共通戦略目標の見直し、再確認の作業を進めていく」ことで一致した。事務レベルの意見交換では、中国の南シナ海や東シナ海への進出を受けて「海洋航行の自由」などを盛り込むことを検討している。

 現行の共通戦略目標は、日米が05年2月に発表。台湾海峡問題の平和的解決や北朝鮮に関連する諸懸案の平和的解決などの目標を明記。安全保障環境に応じた見直し条項も盛り込んでいた。

 クリントン氏は会談後の共同記者会見で「この数カ月のうちに2プラス2が開催されることを期待する。今春の後半に、菅首相を招待するのを楽しみにしている」と表明した。ただ日米は、次回の2プラス2で米軍普天間飛行場の沖縄県名護市への移設案の詳細を固めることでも合意している。県内移設に地元の合意を得られる見込みはなく、首相訪米前に2プラス2を開けない可能性もある。

 前原外相は会見で「沖縄の基地負担軽減と抑止力の維持を両立させる努力をしていく」。クリントン氏は「米国は同盟の基盤となる重要な問題について努力し続けていく。普天間問題もその一部だ」と話した。

 また両外相は、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)について協議を進める方針を確認した。前原氏は会談に先立ち、米戦略国際問題研究所(CSIS)での講演後の質疑で「より自由な貿易体制を目指し、それを日本再生の起爆剤にしていくことが必要だ」と積極姿勢を示した。

 北朝鮮については前原氏が共同会見で「北朝鮮が具体的な行動をとれば、中国が提案している6者の会合を拒む理由はない」と、まず北朝鮮が非核化を進めるべきだとの考えを表明。クリントン氏も「我々は北朝鮮の挑発的な行為を終わらせ、朝鮮半島の非核化に取り組むことを確認した」と語った。


・「フロリダ高速鉄道計画の中止確定」

2011年3月5日付 MSN産経ニュース
2011.3.5 12:03


 【ワシントン=柿内公輔】ラフード米運輸長官は4日、フロリダ州の高速鉄道計画にあてる連邦予算を他の州に振り向けると発表した。共和党系のスコット州知事が連邦政府の補助金の受け入れを拒否しているためで、日本が新幹線の採用を売り込んでいた同計画の中止がほぼ確定した。

 米メディアなどによると、ラフード長官は同日、スコット知事と電話で会談し、約24億ドル(約1980億円)の補助金を受け入れるよう再度促したが、州のコスト負担増を懸念する知事は拒否。長官は「補助金は、(高速鉄道計画を抱える)他の州に振り向けられるだろう」と述べた。

 また、同州の州上院議員がスコット知事に補助金受け入れを命じるよう求めていた訴訟で、同州最高裁は4日、訴えを退けた。

 これにより、オバマ政権が全米で整備する高速鉄道網で最も進行していたフロリダ州の計画が頓挫した。

 新幹線を擁する日本は、JR東海など11社の企業連合を組み、前原誠司外相が訪米して知事にトップセールスをかけるなど官民挙げて受注を目指していた。藤崎一郎駐米大使は4日、「連邦政府の決定を見守りたい」と述べた。

(新聞記事転載貼り付け終わり)

2010年9月以降、日中関係に大きな進展はありませんでした。日本は中国との間で何もしてこなかったと言えます。問題が生じたら、それに向けて解決をするための努力をしなければなりませんが、全くそれがないまま、半年が過ぎました。中国の指導部は交替に向けて、課題を少しでも解決していこうという姿勢を見せているのですから、その流れに乗って日中関係も改善させられることもできたはずです。しかし、アメリカから見れば、こうした日本の無策は、だんだん負担になっていきます。アメリカは中国との相互依存関係にあり、敵対ばかりしていられません。しかし、日本側と会うたびに、中国に対する非難や批判をしなければならないのは大きな負担であり、アメリカの国益を損なうことになりかねません。中国もアメリカの苦しさは分かっているでしょうから、表だっては批判
しつつも、「大変だね」ということになります。そして、お互いにとって負担(と言うよりは負債)となっているのは、「あの日本の外相だ」ということになったのでしょう。

「日本の外相を交替させてしまえば良いや」が米中の共通の利益となりました。その象徴として前原外相がトップセールスで売り込んだ高速鉄道です。「日本から作らせて下さいと言ってきた。まぁ一応良いものらしいし、前原は大事な政治家のようだから考えてやるか」だったのでしょうが、「前原はダメだということが分かったから、気を使う必要もないな」ということになったのでしょう。
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by Hfurumura | 2011-03-08 12:25

ロン・ポールの翻訳本を宣伝します

古村治彦です。

本日は、米共和党所属の連邦下院議員(テキサス第14区選出)のロン・ポール(Ron Paul)議員の翻訳本のご紹介をいたします。

2011年3月19日に、成甲書房から、ロン・ポール著『他人のカネで生きているアメリカ人に告ぐ ―リバータリアン政治宣言― 』(副島隆彦監修・ 翻訳、佐藤研一朗翻訳)が出版されます。このプロジェクトは2009年にスタートし、やっと今月、日の目を見ることになりました。

ロン・ポール議員はこのブログでもご紹介しましたが、リバータリアン系の下院議員であり、連邦政府やFRBに対して批判的、常に戦う政治家です。今回の本は、ロン・ポール議員の政治信条を明らかにした本です。

今回の本はニューヨーク州北部在住の佐藤研一朗氏が訳出したものを、副島先生が丁寧に監訳されたものです。佐藤氏の気合いの入った訳出と副島先生の丁寧な監訳によってこれまでの翻訳調にはない、分かりやすい日本語となっています。

これからのアメリカ政治を理解するための必読の書となります。是非お読みください!

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by Hfurumura | 2011-03-04 13:35

ハンチントンの業績について:フクヤマによる解説

古村治彦です。このブログを長い間、放置してしまいました。誠に申し訳ございません。

ウェブサイト「副島隆彦の論文教室」の管理、翻訳の仕事などで忙しく、こちらに掲載するべきものが手つかずでした。

今回は、「フォーリン・ポリシー」誌に掲載されました、フランシス・フクヤマによる、サミュエル・ハンチントンの業績の解説をご紹介いたします。ハンチントンは2008年に他界しましたが、今でも、政治学における巨人の一人です。彼の業績は多岐にわたり、その理解は難しいのですが、フクヤマはいつものようにうまくまとめています。

ハンチントンの研究の柱は近代化批判、民主化、文化や宗教の政治への影響です。彼の業績を知ることで、昨年からのチュニジア、エジプトの反政府運動と権威主義的政権の崩壊についても考える手がかりになると思います。

それでは拙訳をお読みください。

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サミュエル・ハンチントンの遺産:ハンチントンの政治研究やその他の分野での業績は今日でも重要である。それは何故か。

2011年1月5日
フランシス・フクヤマ筆
フォーリン・ポリシー誌

サミュエル・ハンチントン(Samuel Huntington)の政治研究で最も重要なのは、1968年に発表した『変革期社会の政治秩序』(Political Order in Changing Societies)だ。この著作は、政治発展論の大きな理論を構築しようという最後の試みであった。この著作は、1950年代から1960年代初めにかけて一世を風靡した学問上の理論において、その重要性を持ち、理論の発展に貢献したと言えるだろう。1950年代、「近代化論(modernization theory)」が隆盛を極めた。この理論は、社会変革のための経験に基づいた、様々な学問を統合した理論を構築しようというものである。そして、この理論構築の試みは、アメリカの学問の歴史で最も野心的な試みであった。近代化論の源流は19世紀のヨーロッパで活躍した、ヘンリー・メイン(Henry Maine)、エミール・デュルケーム(Emile Durkheim)、カール・マルクス(Karl Marx)、フェルディナンド・テンニース(Ferdinand Tonnies)、マックス・ウェーバー(Max Weber)にまで遡ることができる。イギリスやアメリカの近代化の経験を基にしながら、これらの学者たちは、社会発展に関する一般法則を発見しようと努力した。

ヨーロッパの社会理論は二つの世界大戦によって完全にその正当性を失った。ヨーロッパの社会理論が生み出した考え方は、アメリカに移植され、第二次世界大戦後、アメリカの学者たちによって洗練されていった。彼らは、ハーバード大学の比較政治部、マサチューセッツ工科大学の国際研究センター、社会科学研究委員会の比較政治分科会に所属し、活動していた。 ウェーバーの学問的な弟子であるタルコット・パーソンズ(Talcot Parsons)が指導していた社会関係学部は、経済学、社会学、政治学、人類学といった社会科学の各分野を統合することを目指していた。

1940年代末から1960年代初めにかけて、ヨーロッパ各国が所有していた植民地はどんどん独立し、植民地帝国は崩壊していった。そして、世界には、第三世界に所属する発展途上国(the third or developing world)が出現した。こうした新しく独立を果たした国々は、近代化の意欲を備え、旧宗主国に追いつこうとしていた。エドワード・シャイルズ(Edward Shils)、ダニエル・ラーナー(Daniel Lerner)、ルシアン・パイ(Lucian Pye)、ガブリエル・アーモンド(Gabriel Almond)、デイビッド・アプター( David Apter)、ウォルト・ホイットマン・ロストウ(Walter Whitman Rostow)といった学者たちは、新たに独立を果たした国々が多く出現したこの状態を社会理論を試すための実験室だと考えていた。また同時に彼ら学者たちは、自分たちが発展途上国の生活水準の向上や政治システムの民主化の手助けができる絶好の機会であると捉えていた。

彼らが主張したのは、アメリカナイズされた近代化論であるとするならば、その中身は、楽観的で、全ての良いことが一緒に起こるというものだった。経済成長、社会的動員、政治システム、文化的価値は一気に改善されるというものだった。ウェーバーが主張した脱魔術化(disenchantment)、資本主義の鉄の檻、デュルケームのアノミー(anomie)といったコンセプトに含まれる悲劇的な側面は全く考慮されなかった。社会の変革の様々に異なる面はつながっている。

『変革期社会の政治秩序』はこうした楽観的な前提に挑戦するものとして出版された。第一に、ハンチントンは政治的不安定さは政治発展と同じくらい起こりやすいものであると主張した。新しく独立した国々では社会的、政治的無秩序が増大していったことは経験上、明らかなことであった。第二に、ハンチントンは、近代化のプラスの面はその意図とは違う結果をもたらすことがある、と主張している。特に、社会的動員が政治機構の発展よりもその速度が速くなると、国民の間に不満が巻き起こる。彼らは民主的な政治体制によって政治に参加できると思っていたのに、それが不可能だということに気づき、それが不満を巻き起こす
ことになるのだ。

『変革期社会の政治秩序』の中で、ハンチントンは、1968年の時点で、元植民地の新しく独立した国々のほとんどで、政治発展が起きていないことを指摘している。世界各国で、クーデター、内戦、反乱、政治的不安定が蔓延していた。ハンチントンは、社会的動員のペースが、政治機構の持つ人々を政治に参加させる能力を超えてしまったら、衛兵主義(praetorianism)、政治的破壊、政治的衰退が起こると主張している。簡単に言うと、近代化によって民主的な政治システムが導入されても、それがうまく機能しなければ、人々の不満をかき立て、結局、そのシステムが不安定になり、崩壊してしまうということなのだ。

『変革期社会の政治秩序』は、近代化論を最終的に否定し、その有効性を否定した著作であったと言える。この著作は、近代化論に対する挟み撃ち攻撃の一方の攻撃者であった。もう一方の攻撃者は左翼からの批判(訳者註:従属論や世界システム論)であった。彼らは、「近代化論者たちは、ヨーロッパや北米の社会発展モデルが世界共通のもので、人類はこれを追いかけるはずだ、という欧米中心的な考えを後生大事にしている」と批判した。アメリカの社会科学は、近代化論の失敗により、全てをつなぐ大きな、統一理論を失い、現在まで続く方法論の「バルカン半島化(Balkanization)」状態に陥ってしまった。

ハンチントンは、現実政治を長年観察し、それを基にして、「政治的秩序自体は大変に素晴らしいものであるが、近代化の過程で政治的秩序が自然発生的に生まれるわけではない」という実際的な主張を行った。彼は続けて、「現実はそんなものではない。政治的秩序がなければ、経済的発展も社会的発展も成功しない」と主張した。近代化は、政治秩序や経済的な成功を収めてから民主化するという順序立てで行うべきだ。民主政治体制が確立していない段階での、早すぎる選挙のような政治参加の増加は壊れやすい政治システムを不安定にするばかりだ。ハンチントンの発展についての戦略は、「権威主義的移行(authoritarian transition)」と呼ばれるものだ。それは次の通りとなる。まずは、近代化された独裁政治によって、政治的秩序、法の支配、経済的成功と社会的成功を導くための条件を整える。このような条件が整えば、近代化のもう一方の要素である民主政治体制と人々の政治参加が実現する。ハンチントンの教え子であるファリード・ザカーリアは、2003年に『自由の将来』という本を書いた。これは、ハンチントンの主張を現代に適応するように改良したものだ。

このハンチントンの主張は、今でも取り上げる価値のあるものだ。アメリカはアフガニスタンとイラクで国家建設事業を行ったが、無残に失敗した。多くの人々は発展の順番をきちんと踏んでいくべきだと言ってきた。「きちんとした国家建設を行ってから民主化し、政治参加を拡大させよ」と言ってきた。

『変革期社会の政治秩序』はハンチントンの初期の業績の一つである。そして、彼はこの著作で政治学者としての名声を確立した。その後も彼は、比較政治学の分野で多くの業績を残した。民主的移行(democratic transition)に関する著作は、冷戦(Cold War)終結直後の時期に大変な評判を呼んだ。民主化に関する著作発表に至るまでの過程は次の通りである。1984年に、ハンチントンが学会誌「ポリティカル・サイエンス・クォータリー」誌に「これからより多くの国々が民主化するか?」を発表した。ハンチントンは、1970年代から1980年代にかけてのスペイン、ポルトガル、南米諸国の民主的移行について調査、研究を行った。そして、ハンチントンは、「これからしばらく、構造的な、もしくは国際的な条件が大きく変わらない限り、世界中で権威主義からの移行はそこまで起こらないだろう」という結論を出した。この論文が書かれたのは、ベルリンの壁崩壊が起きる僅か5年前であった。ハンチントンは共産主義の崩壊後、考えを変え、『第三の波』(The Third Wave)という著作を発表した。この第三の波とは、ハンチントンが1970年代から1989年の時期を一つの時期としてまとめて呼んでい
るものだ。

『第三の波』は、民主化について書かれた著作である。しかし、比較政治の分野で注目されてきた、それまでの民主化についての業績とは大きく異なる種類の研究であった。民主化については、シュミッター・オドネル・ホワイトヘッドの研究に代表される「アクター」の研究と、セイモア・リプセットやシュボウスキーに代表される民主的な安定の構造的な条件についての研究の2つの流れがあった。ハンチントンは、「民主化の第三の波はキリスト教国で起きており、20世紀末の民主化のパターンは宗教的な要素が大きく影響している」と主張した。カトリックの国々は、プロテスタントの国々で起きた民主化の第一の波に追いついてきたと言える。それは、資本主義革命がプロテスタントの国々で起こり、その後カトリックの国々に波及していったのと同じだ。

しかし、民主化の第三の波は、決して様々な文化を超えて起きている近代化の過程のことではない。近代化は文化の違いなどは関係なく、全ての社会で起こることだ。しかし、近代化は、欧米のキリスト教文化から生まれた文化的価値観から生まれた。1970年代前半からの民主政治体制の拡散は、文化を超えた、人類共通にアピールがあったから広がったのではなく、アメリカやキリスト教国の力と権威に多くの国々の人々が憧れたからなのである。

『第三の波』が出版された当時ははっきりしなかったが、民主化の文化面に関する主張は、その後、『文明の衝突』(The Clash of Civilizations)と『分断されるアメリカ』(Who Are We?)、更にはローレンス・ハリソンとの共編著『文化こそが重要だ』(Culture Matters)でも繰り返し議論されてきた。ハンチントンは、『変革期社会の政治秩序』に代表されるように、近代化論を否定してきた。彼は、国内政治の発展と国際関係における文化的な価値と宗教の優位性の存在を強く信じていた。文化的な優位性というハンチントンの主張とは反対に、グローバライゼーションは、中身のない薄ぺらい世界市民主義者である「ダボス人(Davos men)」を生み出すような底が浅い動きである。そして、グローバライゼーションが深化しても世界平和と繁栄が訪れるとは保証できない。そして、アメリカは世界的な民主化に向けての動きの前衛であり、その象徴ではない。アメリカの民主政治が成功しているのは、「アングロ・プロテスタント」社会という起源に基づいているからだ。ハンチントンは亡くなる直前まで、宗教が世界政治に与える影響についての研究に注力していた。

ハンチントンは、「近代民主政治体制は歴史的に見て西洋のキリスト教から生まれた」と主張しているがこれは正しい。しかし、これは何も斬新な考えではない。トクビル(Tocqueville)、ヘーゲル(Hegel)、ニーチェ(Nietzsche)のような多くの思想家たちは、「西洋の民主国はキリスト教の原理である普遍主義(universalism)の世俗化の結果である」という観察を行っている。しかし、民主政治体制が特別な歴史状況から生まれたと言って、世界の非西洋の国々で民主政治体制を確立できない、民主政治体制を世界中で実現できないということはない。民主政治体制はある程度世界に広まっているが、それは、民主政治体制が、支配者たちに対して国民への説明責任(accountability)を果たさせる効率的な方法であるからだ。決して文化的な優位性があるからだけではない。中国が民主国家となる場合、それは、中国国民がアメリカの民主政治体制を賞賛し、それを真似たいと望むから、民主国家になるのではないだろう。それは、中国が抱える政治的腐敗、環境汚染、社会的な不正義の蔓延といった諸問題を、指導者たちが説明責任を果たさない非民主体制では解決できないと判断したからであろう。

『分裂するアメリカ』において、ハンチントンは、「アメリカのアイデンティティは、アメリカ合衆国憲法(the Constitution)とアメリカの信条(American creed)に対する忠誠心によって規定されるのではない。それは、『アングロ・プロテスタント文化』と私が呼ぶ宗教的なルーツを持つものである」とはっきりと主張した。『分裂するアメリカ』の中でハンチントンは、「アングロ・サクソン・プロテスタントの文化を持ったイギリス人ではなく、スペイン、ポルトガル、フランスのカトリックたちによってアメリカが建国されていたら、現在のような合衆国ではなく、メキシコ、ブラジル、カナダのケベック州のようになっていただろう」と書いている。これは歴史的に正しい考察と言えるだろうが、一つの疑問も生じる。それは、この歴史的事実は、そうではなかったという仮定の場合と比べて、現在のアメリカ政治に大きな違いをもたらしているのだろうか?というものだ。ハンチントンは『分裂するアメリカ』で、一章を割いて、有名なプロテスタントの労働倫理を取り上げている。このプロテスタントの労働倫理はアメリカの文化の一部であり、アメリカのアイデンティティの柱となっている。しかし、それでは、現在のアメリカにおいて一体誰が勤勉に働いているかと言われると、古くからアメリカに存在するボストン・ブラーミン(Boston Brahmin)と呼ばれるワスプ(WASP)でもなく、アパラチア山脈からテキサス、アメリカ南西部に広く居住しているスコッチ・アイリッシュ(Scotch-Irish)と呼ばれる人々でもない。ボストン・ブラーミンは、自身の信託基金からの支払いによって生活している。スコッチ・アイリッシュは、アメリカの人種・民族別の統計では、一人当たりの収入が最低のグループに入っている。労働を尊ぶというアメリカ文化の建前は、ロシアから来たタクシードライバー、韓国出身の商店主、メキシコ出身の日雇い労働者たちが担っていると言える。労働を尊ぶということは世界中にアピールし、世界中で受け入れられている。

ハンチントンの主張は常に強力で、ハンチントンが持つ大変な学識と知識が溢れ、説得力を持つものだった。もしハンチントンの主張に合意できない部分があっても、彼の主張に真剣に耳を傾け、真面目に考え込んでばかりいた。ハンチントンの主張は、アメリカ政治、防衛政策、民主的移行、アメリカにおけるアイデンティティについてと幅広いものであり、議論のための材料(言葉と組み立て)となるものだった。彼は研究者として輝かしい業績を残したが、教師としても素晴らしい業績を残した。彼の教え子たちは政治学の全ての分野で革新をもたらした。彼は、初期の著作から晩年の著作まで、常に厳しい批評家であったが、それは「重要で、しかも根本的なことを言っておかねばならない」という信念があったからだ。これからしばらくはハンチントンのような学者に出会うことはないと確信を持って言える。

※この論文は、2008年の「アメリカン・インタレスト」誌の記事と、『変革期社会の政治秩序』の2006年版の前書きを基にしたものである。

(終わり)
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by Hfurumura | 2011-02-13 15:28

マドフ事件に関連し、ソンジャ・コーンというオーストリアの女性銀行家が訴えられました。

古村治彦です。昨日に続き、今回もバーナード・マドフ事件の進展についてお知らせします。

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※『バーナード・マドフ事件 アメリカ巨大金融詐欺の全容』は成甲書房のウェブサイトからもお求めいただけます。
サイトへは、こちらからどうぞ。

バーナード・マドフがニューヨークを本拠地として詐欺事件を起こしたので、この事件に関しては、やはりニューヨーク・タイムズ紙の報道の量が多いようです。ニューヨーク・タイムズ紙には、ニューヨークにある大リーグ球団、ニューヨーク・メッツのシーズンオフの補強が進んでいないのはマドフ事件が理由になっているという面白い記事が掲載されていました(http://www.nytimes.com/2010/12/06/sports/baseball/06mets.html?scp=4&sq=madoff&st=cse)。

ニューヨーク・メッツのオーナーであるフレッド・ウィルポンの家族は、昔、マドフの家族と隣同士で住んでいて家族ぐるみの付き合いをしていたそうです。子どもたち、先週自殺したマドフの長男マークとウィルポンの息子ジェフは幼馴染です。そして、ウィルポンはマドフに投資をしました。これだけならウィルポンは被害者ですが、ウィルポンの投資は長期間にわたったために、総額で5億2270万ドル(約4200億円)をマドフに投資し、約5億7050万ドル(約4700億円)になっていました。ウィルポンはマドフへの投資で、純利益4780万ドル(約500億円)を上げました。

マドフの事業の清算管財人である、アーヴィング・ピッカードは、マドフに投資ししていた投資家や企業の中で、純粋な被害者以外にはお金の返還を求めていました。マドフの逮捕から2年目の丁度今が訴訟を起こすかどうかの期限でした。そこで、ピッカード氏は大手金融機関やウィルポンのように利益を上げた投資家たちを訴えたのです。この提訴の行方はまだ分かりませんが、ピッカード氏の主張が認められると、ウィルポンは巨額のお金を返還しなくてはいけなくなります。それで、ニューヨーク・メッツは動くに動けないようになっているようです。

マドフの詐欺事件はアメリカだけにとどまらず、世界中に影響を与えました。日本でも多くの大手金融機関がマドフへの投資を組み込んだ金融商品を顧客たちに売り付けたり、自分たちがマドフに対して投資をしたりしていました。そうした中で、下の記事にあるとおり、オーストリアにあるメディチ銀行(歴史上有名な名家であるメディチ家とは一切関係ないが、名前を拝借し、エンブレムも似せている)のオーナーである、ソンジャ・コーンという女性銀行家が、マドフの事業の清算管財人であるピッカード氏に訴えられました。その額は196億ドル(約1兆6000億円)です。

※ニューヨーク・タイムズ紙の記事のアドレスは以下の通りです↓
http://dealbook.nytimes.com/2010/12/10/madoff-trustee-seeks-19-6-billion-from-austrian-banker/?scp=5&sq=madoff&st=cse

『バーナード・マドフ事件』にはこのソンジャ・コーンは出てきません。しかし、これは翻訳の過程で、邦訳書のページ数が膨大なことになるという判断で、削ってしまったからです。翻訳について説明すると、英語から日本語に翻訳すると、ページ数は英語の原著に比べて増加します。それは言葉を加えて分かりやすくしますし、単語の長さや文字数と行数が英語と日本語では大きく異なるためです。これまでたくさんの翻訳が出版されましたが、中身の分量を減らして出版される場合が多いのです。『バーナード・マドフ事件』もそのために少し中身を削りました。しかし、原著は全て訳してあり、その中にソンジャ・コーンについて書いてある部分もありました。そこで、ここに出版され
なかった部分を以下に掲載したいと思います。ソンジャ・コーンについて理解が深まると思います。

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(翻訳書から削った部分を掲載はじめ)

ウィーンでは、ソンジャ・コーン(Sonja Kohn)がマドフの協力者として成功を収めていた。コーンは、ウィーンで小規模な投資銀行であるバンク・メディチ(Bank Medici)を設立した。バンク・メディチは、マドフのネズミ講に、顧客から集めた金三〇億ドル(約二七〇〇億円)以上を流していた。ソンジャ・コーンは、ティエリ・ド・ラ・ビーユウシェットやマイケル王子のように、投資家を勧誘する際に貴族の人脈があるかのように振る舞ったが、実際には、彼女は貴族とのつながりなど持っていなかった。バンク・メディチのロゴは、貴族や王族の紋章(coat of arms)を真似たもので、二頭のライオンが王冠を載せた楯を支えている、というものだ。しかし、このロゴのデザインは新しく作られたものだ。バンク・メディチはイタリアのメディチ家とは何の関係もなかった。メディチという名前には著作権はないので、コーンはそれを使っただけのことだ。従って、バンク・メディチには長い歴史はない。コーンのメディチ・バンクの投資部門であるメディチ・ファイナンス・コンサルティング(Medici Finance Consulting)は一九九四年に設立されたが、銀行業の免許を取得したのは二〇〇三年だった。

コーンは一九四八年、ホロコーストを生き抜いた正統派ユダヤ人の両親の間に生まれた。生まれてすぐ両親と共にウィーン(Vienna)に移り住み、ウィーンで育った。彼女の幼馴染は、彼女は努力家で、成績を上げようという野心に満ちた子供だったが、頭はそれほど良くなかった、と語っている。彼女はアーウィンという男性と結婚し、貿易業を始めた。二人はミラノ(Milan)やスイス(Switzerland)に移りながら、事業を行った。事業を通じて構築した人脈が後々活かされることになる。一九八〇年代、コーンは家族と共にアメリカに移住した。彼らが落ち着いたのは、マンハッタンから三〇マイルほど離れたモンシー(Monsey)という小さな町だった。ここには超正統派(ultra-Orthodox)ユダヤ人たちが多く住み、共同体を形成していた。コーンは、モンシーに住んでいる間に信心深くなっていったようである。子供たちが大きくなり、家を出て行ったあと、コーンは新しいビジネスを始める決心をした。それは投資業であった。コーンは聡明で、努力家で、固い決意を持っていた。ブルームバーグ・ニュースによると、ソンジャ・コーンは株式ブローカーの資格試験のため独学で勉強し、一九八四年に株式ブローカー資格試験に合格した。コーンは一九九〇年頃にマドフに会い、BLMISのためにお金を集めることになった。それからマドフが逮捕されるまで、ソンジャ・コーンは世界中を旅し、チューリッヒ(Zurich)、ウィーン、ミラノ、モスクワ(Moscow)、エルサレム(Jerusalem)などで投資家を募り、投資家との人脈を構築していった。その際に、コーンが英語、ドイツ語、イタリア語、ヘブライ語が話せることが大いに役立った。

コーンの家族は一九九〇年代初めにウィーンに帰った。コーンは、ビジネスパートナーであるマドフ同様、ウィーンの金融界で確固たる地位を築くことで尊敬を勝ち得ようと努力していた。彼女はウォール街とのつながりを最大限利用した。そうすることで、小さくて閉鎖的なオーストリアの金融業界に入り込むことができた。井の中の蛙の状態にあったウィーンの銀行家たちは、コーンのエネルギッシュさに圧倒された。コーンは自分を良く見せる技術を持っており、また、ヘッジファンドやウォール街についてよく話した。こうしたことによって、ウィーンの銀行家たちは催眠術にかけられたようになってしまった。コーンがウィーンに帰った時期も良かった。一九九〇年代前半はオーストリアの諸銀行が規模を拡大していた。共産主義の崩壊によって東欧への門戸が開かれ、そこに投資やビジネ
スのチャンスが広がっていた。多くの外国企業がオーストリアの銀行と提携した。それは、オーストリアの銀行が地域の経済や社会についての専門知識や経験を蓄積していて、また、新らたに民主化された東欧諸国と歴史的につながりを持っていたからだ。このような転換期に、ウォール街とのつながりを持つコーンはウィーンの金融界にとっての希望の星となった。コーンは、ウィーンを国際的に活躍している投資家たちが集まる拠点にし、オーストリアの金融・銀行業界を新しいレベルに導くための若き指導者となった。

ウィーンの狭くて、人間関係が濃密な金融業界において、コーンは、バンク・オーストリア(Bank Austria)のある幹部の庇護を受けていた。バンク・オーストリアはバンク・メディチの株式の二五パーセントを保有していた。バンク・オーストリアの幹部たちの中には、オーストリア最大の銀行であるバンク・オーストリアが、バンク・メディチのような昨日今日出てきたような銀行に深く関わるのは問題だ、という人々もいた。しかし、そんな人々も口を閉ざすようになった、とウィーンの金融業界のある事情通は述べている。彼はまた、「バンク・メディチとの提携に反対していた人々は、どうもこれはすでに決まったことであり、反対するとあなた方の地位は保証できない、と言われたようですよ」と語っている。バンク・メディチは本社をウィーン国立オペラ座(State Opera building)の向かい側のビルに置いた。内装はアンティーク家具やペルシア絨毯で飾られていた。コーンはバンク・メディチの幹部たちを毎朝八時に伝統あるホテルザッハー(Hotel Sacher)に集め、朝食をとりながらミーティングを行った。これはウォール街の習慣をそのまま取り入れたものだった。しかし、ウィーンの金融業界で午前八時から仕事をするというのは前代未聞のことだった。コーンは、お気に入りの社員たちに、ホテルザッハーで売られている、有名なチョコレートケーキ
、ザッハートルテをプレゼントしていた。また、コーンはロンドンを訪れる際には、クラリッジホテル(Claridges hotel)のスイートルームに泊まり、そこで訪問者たちと面会していた。

ウィーンのユダヤ人社会は小さいもので、七〇〇〇人強しかいなかった。コーンはウィーンのユダヤ人社会の中においては大物とまでは言えない存在だった。彼女は、エルサレムにあるヘブリュー大学(Hebrew University)に対する寄付のような慈善事業を行う人々とは全く関係を持たなかった。コーンは夫と共に超正統派のシナゴーグである、小さなシュティビル(shtibl)で礼拝していた。彼らの行くシュティビルは、グルエンアラガッセ(Gruenangargasse)地区にあるバロック建築のアパートの中にあった。このアパートは、シュテファン大聖堂(St Stephen’s Cathedral)があるウィーンの旧市街にある。ウィーンのユダヤ人社会の事情に詳しいある人物は次のように証言している。「コーン夫妻が通っていたシュティビルには中くらいの部屋が二つか三つしかないのです。しかし、そこに来ている信者たちはウィーンでも指折りの資産家ばかりですよ。彼らは信心深いですよ。そこの信者には銀行家や資産家の方々もいますよ。彼らは尊敬に値する人たちです」

国際金融の世界で、ソンジャ・コーンは常に自分を良く見せるように努力していた。ソンジャ・コーンは、有名デザイナーがデザインした宝石を身に着け、赤褐色のシェイテル(sheitl、訳者註:ユダヤ女性が被る帽子)をかぶり、ユダヤ教正統派の女性が被るカツラをつけていた。コーンは絶対にノーとは言わない女性として知られていた。ソンジャ・コーンは人脈を駆使した。彼女は、オーストリア政府の元大臣二人をバンク・メディチの取締役として迎え入れた。バンク・メディチは、オーストリアの経済省と外務省に対してアドヴァイスをしていた。コーンは、ウィーン市内で最大のウィーン美術史美術館(Kunsthistoriches Museum)で開催された二つのイベントを支援していた。彼女はお喋りであったが、そのお喋りが好まれた。一九九九年、コーンはオーストリア政府から勲章を授与された。しかし、彼女の成功を称賛しない人々もいた。金融業界はいまだに男社会であるが、バンク・メディチは女性であるコーンが率いていたし、彼女のはっきりとした物言いと衝突を恐れない態度を取っていたので、ウィーンの金融業界内部には彼女のことを面白く思わない人々もいた。ウィーンは、一九四五年以来、妥協と合意で全てが進められてきた街である。彼女は感情の起伏が激しく、自分の部下を召使のように扱った。ウィーンの金融業界の内情に詳しいある人物は次のように語っている。「コーンはウィーンの金融業界にとって重要な人物でした。しかし、彼女は周りからおだてられ、自分のことを天才だと思うようになってしまったんです。コーンは傲慢で、人に不快感を与えてしまう人でした。そして自分は特別な人間であるかのように振舞っていました。彼女はマドフの神秘的な力を利用していました。彼女の成功は人々の噂話や口コミの力によるところが大きいのです。実際に安定した利益を出しているファンドがあり、彼女がそれにアクセスできるということになれば、彼女が持て囃されるのは当然ですよね」

コーンはウィーン市当局が推進していたキャンペーン「ウィーン:投資の都」の熱心な後援者であった。このキャンペーンは、金融におけるウィーンの地位向上を目指すものであった。それでもコーンはウィーンの金融業界の人々が時代の変化に合わせて、様々なことを学ぶスピートはかなり遅いと不満を漏らしていた。コーンは、二〇〇八年六月にフィナンシャル・タイムズ紙とのインタビューの中で次のように発言している。「外国のことを学ぶのは大変なことですね。そして、そうしたものを学ぶのは一直線ではなく、迂回をしてしまう感じですね。オーストリア政府はヘッジファンドの設立もいまだに認めてくれないのです」しかし、オーストリアには少なくとも「常識を大切にする環境」があった。コーンは次のように語っている。「ある人が有罪であるという証明がなされるまでは、その人は無罪です。しかし、こうした考えがどこでも通用する訳ではないのです」  バンク・メディチを設立以来、ソンジャ・コーンの決断と経営手腕によって、銀行は大きな利益を上げていた。バンク・メディチは二つの投資ファンドを作り、そこからマドフに二一億ドル(約一九〇〇億円)の資金が流れた。バンク・メディチは三つ目の投資ファンドであるシーマ・ファンド(Thema Fund)を設立した。これはマドフに対する三つ目のフィーダーファンドになった。ブルームバーグ・ビジネス・ニュースによると、二〇〇八年一一月の段階で、シーマ・ファンドは一二億ドル(約一一〇〇億円)の資金を保有していた。マドフが逮捕される一月前の二〇〇八年一一月、バンク・メディチの投資ファンドは大きな成功を収め、賞賛を受けた。バンク・メディチは、ドイツ・ヘッジファンド・アワードのシングル・ヘッジファンド・マルチ・カテゴリー部門の最優秀賞を授与されたのである。

マサチューセッツ州検察局のコウマッドに対して訴えを起こした。コウマッドはマドフの投資ファンドのフィーダーファンドであった。BLMISとコウマッドはともに同じリップスティックビルに本社を置いていた。訴状によると、ソンジャ・コーンはBLMISから五二万六〇〇〇ドル(約四八〇〇万円)の報酬を受け取っていた。マサチューセッツ州検察局は、「コーンがコウマッドのために働くための登録をしていなかったが、コウマッドを通じてマドフから報酬が支払われていた。またコーンの名前がコウマッドの財務報告書の中で報酬を支払った相手として掲載されていた」と主張している。アーヴィング・ピッカードの訴えの中でも、ソンジャ・コーンはコウマッドを通じてBLMISから報酬を得ていた、とされている。ピッカードは訴状の中でこのことを「ソンジャ・コーンに関する興味をそそる事実」と書いている。ピッカードの訴状には、二〇〇四年に書かれたコウマッドの内部文書が引用されている。以下に引用する。「以下、注意すること。マドフからの支払いの中には、SKに対しての支払い金が含まれている。その金額は八万七七九二ドルである」また、二〇〇六年に書かれたある書類にもマドフからコウマッドへの支払いの中に、「ソンジャ・コーン」に対する支払い金八万七七九二ドルが含まれている、と書かれていた。 コーンはマドフが詐欺行為や犯罪行為を行っていたことは知らなかったと繰り返し述べている。彼女は次のように発言している。「私はマドフのネズミ講の最大の被害者です。マドフの事件は私の家族、私の会社、私自身にとって悲劇でした。そして私たちは今悲劇の真っただ中にいます」

(掲載終わり)
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by Hfurumura | 2010-12-13 12:55

バーナード・マドフ事件に進展がありました

古村治彦です。このブログを長く更新せず、大変失礼しました。最近、仕事が立て込み、ブログを書くことを疎かにしてしまいました。反省し、これからは定期的にブログを書くように致します。

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今年4月、アダム・レボー著『バーナード・マドフ事件 アメリカ巨大金融詐欺の全容』(副島隆彦監訳、古村治彦訳、成甲書房、2010年)が出版されました。この本では、被害総額650億ドル(約6兆円)という史上最大規模の金融詐欺事件を起こした、バーナード・マドフの人生と事件の内容が描かれています。本では逮捕までのことが、詳細に、かつ大河ドラマのように描かれており、大変読みごたえがある本です。年末年始のお休みに是非お読みいただければ幸いです。

※成甲書房のウェブサイトでもお求めになれます。サイトにはこちらからどうぞ。

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バーナード・マドフ事件について簡単に説明します。マドフはナスダックを創設した人物で、伝説的な投資ファンドのマネージャーでした。彼は常に年10パーセントのリターンを出す人物として、投資家たちの間で有名でした。そして、多くの金持ちたちが彼に資金を預けようと殺到しました。また、マドフに資金を流すためにファンド(これをフィーダーファンドと言います)を経営している人々もいました。しかし、2008年のリーマンショックで現金が必要になった人々から資金の引き上げ要求が相次ぎ、マドフはついに、「自分が詐欺を行っていた」と二人の息子に告白しました。息子たちは司法当局に通報し、2008年12月10、バーナード・マドフは逮捕されました。彼の金融詐欺による被害額は650億ドル(約6兆円)で、被害者の多くがユダヤ系の金持ちたちで、被害者にはスティーヴン・スピルバーグやラリー・キング、エリ・ヴィーゼルといった有名人たちも含まれています。また、日本の金融機関も被害に遭っています。マドフは裁判で懲役150年の判決を受け、服役しています。

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この年末、バーナード・マドフ事件に関連し、2つの大きな動きがありました。下に転載しました新聞記事にもありますが、1つ目は、マドフの事業清算管財人アーヴィング・ピカード氏が、大手の金融機関に対して支払いを求める民事訴訟を連邦破産裁判所に起こしたことです。2つ目は、バーナード・マドフの長男で、マドフ証券で働いていた、マーク・マドフが2010年12月11日に自宅で自殺をしたことです。

『バーナード・マドフ事件』で取り上げられているファンドや大手金融機関は被害者の振りをして、「いくらいくら損失を被りました」ということを事件の発覚直後に発表しています。その一覧表は、『バーナード・マドフ事件』に収められています。しかし、下の新聞記事を読むと、実情はそんなに単純なものではないようです。これまでは、次のように考えられてきました。大手金融機関は、少しでも良い投資先を探すものだ。また、顧客からもリターンの大きい金融商品を売るように求められる。ここに、年率10パーセントは堅いファンドがある。それならそれに投資をする商品を作ろう。それなら顧客も満足する。それでマドフの詐欺行為に巻き込まれたのだ、と。しかし、彼らは、マドフが詐欺講をしていることを知っていたが、それを隠して金融商品を売っていた、と破産管財人は主張しています。さらに、マドフの下に集められた資金がこうした大手金融機関に投資されていたが、それらがうやむやになっているようです。簡単に言うと、「彼らがマドフに対して損をさせた」ということになります。

マドフは現在、懲役150年の判決を受け、ノースカロライナ州にある矯正施設に服役中です。彼が生きて刑務所を出ることはできないでしょう。彼は希代の悪人のように言われており、家族も大変な目に遭っています。マドフの奥さんのルースも生活費として2億円だけ手元に残すことを許されましたが、それ以外の資産は全て没収されました。息子たちはマドフが詐欺行為をしていることを知らなかったということで逮捕は免れましたが、彼らに対しての非難も大変なものでした。彼らもまたマドフによる詐欺の被害者で、貰えるはずの利益を貰えなかった点では他の被害者と何ら変わりません。それなのに、長男マークは自殺をしてしまいました。彼は大変に優しい性格であり、小さい時から人気者だったそうですから、「良心の呵責に耐えられずに」自殺したのだという解釈がなされるでしょう。しかし、彼の自殺の原因はまた別のところにあったと思う方が自然ではないかと思います。同時期に破産管財人による大手金融機関に対するお金の返還訴訟が起こされている、この点が大変に重要だと思います。

破産管財人が言うように、大手金融機関は決してただの被害者ではないと思われます。彼らもまた詐欺行為に加担したのだということなのでしょう。ですから、建前で言うと、彼らもお金を返還し、本当の被害者たちに渡るようにすべきなのです。しかし、下の記事にあるように、破産管財人による返還請求の額は大変なものです。アメリカ政府がこうした大手金融機関が潰れないように税金を投入したのに、お金を返還するとまた経営が悪化してしまいます。ですから、事件をうやむやにする必要があります。それもあって、今回、マーク・マドフに対して、逮捕するとか、訴訟を起こすといった圧力をかけて自殺にまで導いた勢力があると考えられます。ウォールストリートジャーナル紙がマーク・マドフについての記事を書き、その内容は彼の責任を追及するものだったという話、そして、マーク・マドフはそれを大変に気に病んでいたという話もあります。

日本もアメリカもマスコミを含めて全てががんじがらめに絡め取られていると私は考えます。ですから、マスコミではマドフは極悪人と言われ、地獄の火で焼かれろとまで言われていましたが、本当の悪は別にいるのではないかと思われるのです。

(新聞記事転載貼り付けはじめ)

●「モルガンに5千億円請求 米国の巨額詐欺事件で」

MSN産経ニュース 2010年12月3日

 米国の巨額詐欺事件で服役中のナスダック・ストック・マーケット元会長バーナード・マドフ受刑者の事業清算手続きをしている管財人は2日、同受刑者による犯罪を助けたとして米金融大手JPモルガン・チェースに64億ドル(約5400億円)の支払いを求める訴えをニューヨークの連邦破産裁判所に起こしたと発表した。

 発表によると、JPモルガンは20年以上にわたって同受刑者の運営していた投資会社のメーンバンクの立場だったが、同受刑者の詐欺行為などを故意に無視していたと主張している。

 同管財人は詐欺被害者の損害回復に向け、スイスの金融大手UBSに対しても先月、20億ドル以上の補償を求めている。(共同)

http://sankei.jp.msn.com/economy/finance/101203/fnc1012031031009-n1.htm


●「巨額詐欺主役の長男自殺か NYのマンションで首つり」

MSN産経ニュース 2010年12月12日

 米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)によると、巨額詐欺事件で服役中のナスダック・ストック・マーケット元会長バーナード・マドフ受刑者の長男マーク氏(46)が11日朝(日本時間同日夜)、ニューヨーク市内の自宅マンションで首をつった状態で死亡しているのが見つかった。

 同紙によると、マーク氏の弁護士は声明で自殺であると発表した。AP通信によると、捜査当局も自殺と見ている。

 APによると、この日はマドフ受刑者の逮捕からちょうど2年。マーク氏と弟は父親の詐欺事件に関し捜査の対象とはなったが、刑事訴追は受けていないという。知人によると、同氏は最近、ふさぎ込みがちだったという。(共同)

http://sankei.jp.msn.com/world/america/101212/amr1012120159004-n1.htm


●「野村の英法人などを訴え 米巨額詐欺事件で」

47ニュース 2010年12月10日

 【ニューヨーク共同】米国の巨額詐欺事件で服役中のナスダック・ストック・マーケット元会長バーナード・マドフ14件受刑者の事業清算手続きをしている管財人は9日までに、証券最大手の野村ホールディングスの英国法人など7社に対して総額10億ドル(約840億円)超の支払いを求める訴えをニューヨークの連邦破産裁判所に起こしたと発表した。

 訴えられたのは野村の英投資銀行ノムラ・バンク・インターナショナルや米金融大手シティバンク、米金融大手バンク・オブ・アメリカ傘下の証券大手メリルリンチなど。

 発表によると、7社はマドフ受刑者の詐欺行為を認識していたか、認識していたとみられる時期に、受刑者の運営していた投資会社から資金を受け取っていた。これらの金融機関が投資商品の開発や提供も行っていたと指摘している。

 同管財人はこれまでに、スイスの金融大手UBSや米金融大手JPモルガン・チェースにも支払いを求めている。

http://www.47news.jp/CN/201012/CN2010121001000060.html


●「野村証券に510万ドル請求 米巨額詐欺関連で海運会社」

47ニュース 2010年6月1日

 米国史上2番目の巨額詐欺事件で禁固150年とされたナスダック・ストック・マーケットのバーナード・マドフ元会長関与の金融商品に出資し損失が出たとして、東京の海運会社「乾汽船」が野村証券に約510万ドルの損害賠償を求め東京地裁に提訴していたことが1日、分かった。

 提訴した3月時点のレートでは約4億7千万円。野村ホールディングス・グループ広報部は「訴状は受け取っているが、訴訟対応などの詳細はコメントを控える」としている。

 訴状によると、乾汽船は2007年11月、野村証券が販売し、運用先にマドフ元会長の会社が関与していた金融商品に500万ドルを出資。マドフ元会長が08年12月に米連邦捜査局(FBI)に逮捕された後、野村証券は乾汽船に対し、この金融商品の運用先の一部が取引停止となったと通告、全額が損失となった。

 乾汽船側は出資の際に運用先にマドフ元会長の会社が含まれているとの説明は受けなかったと主張。野村証券は出資者に不合理な損害が出ないように配慮して商品の調査を行う注意義務を怠ったとしている。

 5月27日に第1回口頭弁論が開かれた。

http://www.47news.jp/CN/201006/CN2010060101000335.html

(新聞記事転載貼り付け終わり)
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by Hfurumura | 2010-12-13 00:54

スティーヴ・クレモンスのチャルマーズ・ジョンソン博士追悼文をご紹介します。

2010年11月20日、日本政治研究の泰斗、チャルマーズ・ジョンソン博士が79歳で亡くなりました。ジョンソン教授については、これまでも、当ブログ、ウェブサイト「副島隆彦の論文教室」でご紹介してきました。ジョンソン博士について書かれた様々な文章の中で、出色なのが今回ご紹介する、スティーヴ・クレモンス氏の文章です。これを読めば、ジョンソン教授の業績や残した衝撃が良く分かります。ジョンソン教授の逝去に伴い、いくつか文章が発表されましたが、どれもクレモンス氏の文章を超えるものはありませんし、中には彼の文章の物まねであるものがあります。

それでは拙訳をお読みください。

※12/6 『日本の独立』刊行記念 副島隆彦×植草一秀 講演会のお知らせ

植草一秀先生の最新刊『日本の独立』刊行を記念して講演会が開催されます。参加申し込みは、
飛鳥新社のウェブサイトからお申し込みになれます。

飛鳥新社のウェブサイトへは、こちらからどうぞ。

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チャルマーズ・ジョンソンが現在と未来に残した影響と衝撃(The Impact Today and Tomorrow of Chalmers Johnson)

スティーヴ・クレモンス(Steve Clemons)筆
2010年11月21日
ザ・ワシントン・ノート(The Washington Note):クレモンスのブログ

来週、「フォーリン・ポリシー」誌(Foreign Policy magazine)上に、編集長であるスーザン・グレイサーが選んだ、「外交政策における、世界で最も偉大な思想家と実践家たち」のリストが発表される。この試みは年に1回行われるもので、今年で2回目となる。私はリストを見た。選ばれた人々のリストは、創造的で、様々な角度から多様な人々が選ばれていることが良く分かる。

フォーリン・ポリシー誌が選ぶ100人に名前があるべきなのに、掲載されていない人が一人いる。それはチャルマーズ・ジョンソン(Chalmers Johnson)だ。私は、チャルマーズ・ジョンソンはヘンリー・キッシンジャーに比肩する人物であると思う。ジョンソンは、現在のアメリカの外交政策の範囲や目標を定めることができる、アメリカにとって最重要の知識人だった。

チャルマーズ・ジョンソンは、2010年11月20日に79歳で亡くなった。ジョンソンは、「発展志向型国家(developmental state)」の概念を生み出した。この概念を初めて聞いた読者の方々のために簡単に説明をする。ジョンソンが生み出した「発展志向型国家」という概念によって、いかにして国家が経済成長の速度を速めるためにその国の現状に沿った形で政策を実行していくのかという大きな動きを理解することができるようになった。シカゴ大学を中心にして、当時の学界にはネオリベラル派の学者たちが多くひしめき合う中、チャルマーズ・ジョンソンは、政治経済学の分野で、変節者で異端者となった。ジョンソンは、弟子たちと一緒に、これまで常識とされてきた定説に挑んだ。代表的なジョンソンの弟子と言えば、E・B・キーン、デイヴィッド・アラセ、マリー・アンコードギ―、マーク、ティルトンが挙げられる。彼らは海外、特にアジア諸国で実施されている、国家主導の産業政策、通商政策、金融政策についての重要な研究を次々と発表した。

今日、「国家資本主義(State Capitalism)」という概念は、世界経済の最新の、そして最重要の特徴を議論する上で、当たり前に使われている。チャルマーズ・ジョンソンは、政治経済学において、発展志向型国家の概念を生み出すことで私たちに国家の重要性を認識させ、アメリカ以外の国々が自由主義的な、いわゆるアメリカ・モデルに収束せず、模倣をしない理由を学問的に解き明かしたのだ。

ジョンソンは日本の政治経済研究の成果である『通産省と日本の奇跡』を発表した。ジョンソンについて、「ニューズウィーク」誌のロバート・ネフは、日本研究の「修正主義者(リビジョニスト、revisionists)たちの親玉」と決めつけた。ネフは、クライド・プレストウィッツ(Clyde Prestowitz)、ジェームズ・ファローズ(James Fallows)、カレル・ヴァン・ウォルフレン(Karel van Wolferen)、R・タガート・マーフィー(R. Taggart Murphy)、パット・チョート
( Pat Choate)たちを日本異質論を広める新しい動きのリーダーたちだと決めつけた。日本異質論とは、日本の政治経済は、アメリカとは違う様式で組織されているという主張のことだ。リビジョニストというレッテル貼りは大きな反応を引き起こした。ジョンソンをはじめとするリビジョニストと呼ばれた人々は、アメリカの学界から袋叩きにあった。また、アメリカのジャパン・ハンドラーズ(Japan-hands)は、日本の経済官僚は環太平洋にある世界経済をけん引する国、日本の国家安全保障をも担うエリートである、経済力によって国家の安全を図るエリートであるという事実に焦点を合わせるよりも、ジョンソンたちの主張を捻じ曲げることに躍起となっていた。そして、アメリカのジャパン・ハンドラーズたちはリビジョニストたちを攻撃したのである。

1980年代、ジョンソンは、日本が採用している、国家が主導する資本主義は、日本の経済力と富を向上させるだけでなく、日本の「力」自体を増大させていると主張した。キッシンジャーや地政学を基にした戦略家たちは、国際通貨と核弾頭の数と破壊力でしか国力を考えなかった。リビジョニストと呼ばれる人々は、国力と国益の経済的な要素が一国の世界的な地位を考える上で重要であると主張した。そして、実際に国益や国力を考える際に経済的な要素が取り入れられるようになった。

中国はグーグルのような勢いのある国であり、アメリカはジェネラル・モータースのような国である。アメリカは、ブランドイメージが良く、巨大な国ではあるが、実力はお続けている、そんな国になっている。中国の台頭を理解するためには、ジョンソンの発展志向型国家の概念に戻らねばならない。

ジョンソンが残した業績を詳しく調べ、1960年代、70年代彼が行ったことを見ていくと、ジョンソンは、その当時、国家安全保障に関して強硬な立場を取るタカ派(hard-right national security hawk)であったことは分かる。ジョンソンは中国の共産主義革命を分析した。そして、中国の共産主義革命の原動力が階級闘争や共産主義のアピールではなく、燎原の火のごとく農民たちの間に広がっていったナショナリズムであったことをジョンソンは示した。ジョンソンは中国と同じダイナミズムがベトナムで起こっていることを誰よりも早く気付いていた。彼の研究は『農民のナショナリズムと共産主義の力』としてまとめられた。この研究によって、カリフォルニア大学バークレー校に在籍する一介の大学院生だったジョンソンは、アメリカ国内のアジア研究専門家たちの仲間入りをすることができた。

ジョンソンは、友人であっても敵であっても、学問的な誤りを犯していれば、簡潔で、相手をやりこめる攻撃をする能力に長けていた。だから、彼は、そうした姿勢や能力のために常に論争の中にあった。ジョンソンは、ロバート・スカラピーノ(Robert Scalapino)がリードしていたカリフォルニア大学バークレー校のアジア研究プログラムに対して不満を持っていた。ジョンソンはスカラピーノを日本研究者のグループである「菊クラブ(Chrysanthemum Club)」の指導的な立場にいる人物だと考えていた。「菊クラブ」に属する研究者たちは、日本を賞賛していたが、彼らは日本を過大評価したり、日本の国家主導の資本主義の持つ様々な特徴に目を向けない人々だった。ジョンソンは大学院生たちに対して選択を迫った。その選択とは、次の2つの選択肢から1つを選ぶことであった。
①日米間の関係を力の強い兄と兄に従うべき弟と見立て、そうした日米関係を保つために、事実を語るのではなく、様々なことを弁護して回る、汚れた研究者となるか、②研究者として、経験から得られる事実として、日米が共通の経済的利益を得ることができないということを認める立場を取るか。

ジョンソンはスカラピーノに対して激しい批判を行ったが、ロバート・スカラピーノは、自分の立場を変えることを拒否した。ジョンソンは、カリフォルニア大学バークレー校の中国研究プログラム長の立場を捨て、大学を去った。そして、カリフォルニア大学サンディエゴ校国際関係・太平洋地域研究学部へと移り、そこでスター教授となった。学部が国際的な評価を得たのは、ジョンソンが移籍したからであることは疑いないところだ。

しかし、潔癖で、政策、理論、実行に情熱的なジョンソンは、これまでと同じように、カリフォルニア大学サンディエゴ校国際関係・太平洋地域研究学部を運営する官僚たちと衝突することになった。学部の主流となっていったのは、「合理的選択論(rational choice theory)」を信奉する人々であった。合理的選択論は政治学をはじめとする社会科学に拡大していった。社会科学は、いわゆるソフトな科学と呼ばれていたが、人間の行動に関して、ハードな科学である計量経済学で使われていたモデルを吸収し、適用しようとしていた。

ジョンソンと愛弟子の一人である、E・B・キーンは、共同して合理的選択論に対して厳しい批判を展開した。合理的選択論が現代における最大のイデオロギー的な幻想の一つであることを彼らの批判が明確にし、合理的選択論についての賛成、反対の議論が今でも続いている。私もまた合理的選択論に関する論争に参加した。私は合理的選択論の持つ限界について書いた。私は、合理的選択論が幅を利かせるようになり、大学のカリキュラムから、外国語の授業、文化に関する授業、そして、政治学で言えば、政治システムを理解するために重要な、機構・構造分析アプローチの授業が減らされていると主張した。

私はジョンソンの家を訪ねたことがあった。彼の傍らには、彼の長年にわたる相談相手、知的活動のパートナー、そして妻であるシーラ・ジョンソン(Sheila Johnson)がいた。ジョンソンは私に次のような話をしてくれた。「カリフォルニア大学サンディエゴ校国際関係・太平洋地域研究学部では、もはや国際関係も、太平洋諸国の関係についても教えなくなってしまった。学生たちが一年目に習うことは、経済学や統計学で開発されたスキルだよ。外国語、歴史、文化、政治システムよりも計量経済学の公式を重視する傾向が学問の世界で強まっているが、こうした傾向は、膨張し続けるアメリカの文化帝国主義(America's growing cultural imperialism)の表れだと思う」と。

私がジョンソンから話を聞いた夜、チャルマーズ・ジョンソン、シーラ・ジョンソン、そして私は、日本政策研究所(Japan Policy Research Institute)を設立することに決めた。ジョンソンは所長になり、私はディレクターになった。私たちは日本政策研究所の仕事を12年以上にわたって共同で行った。1日おきというわけにはいかなかったが、私は、毎週、ジョンソンと話をした。私たちは、日本について、日米関係について、アジア全体について話をし、先進的な考えをまとめ、出版しようとしていた。私たちは研究所の理事となり、有名な学術誌では掲載してもらえないような、リスクのある内容の、アジアについての研究成果を出版した。そして、現在、太平洋地域における経済、政治、そして軍事に関する評論や研究において、日本政策研究所は重要な役割を果たすようになった。現在、研究所長をしているのはチホ・サワダで、研究所自体は、サンフランシスコ大学を拠点にしている。

ジョンソンは、日本政策研究所を根拠地としてアメリカの諸政策について大きな貢献を行った。ジョンソンは世界各国の政治経済に精通し、冷戦( Cold War)を戦う米ソ両超大国の軍備についての知識も豊富であった。それらを使い、ジョンソンはアメリカがソビエト連邦と同じように、世界各国、特に日本とドイツを、従属国として思うように利用することができるような体制を作っていると喝破した。これは他の誰もできなかったことだ。アメリカもソ連も敵対していたが、お互いは良く似ていた。両国とも帝国であった。ソ連が崩壊したとき、ジョンソンは私に次のように語った。「アメリカは崩壊しない。今のところはね」と。

1995年9月、沖縄で12歳の少女が3人のアメリカ兵に暴行される事件が起きた。その直後、アメリカ軍の司令官は暴行した兵士たちは売春婦でも買えば良かったのだと発言した。沖縄での悲しい事件と司令官の傲慢な発言を聞き、ジョンソンはアメリカの外交政策とアメリカ帝国に対する強力な批判者となった。ジョンソンはベトナム戦争を支持し、カリフォルニア大学バークレー校の反戦運動と対決した人物であった。そんな彼が批判者となった。

ジョンソンは次のように主張した。「アメリカが世界中に数多くの基地を展開し、日本のような外国を占領し続けることを正当化する論理はもはや存在しない」と。ジョンソンは、沖縄だけで39以上の米軍基地、関連施設が存在すると指摘している。アイゼンハワーが警告した、アメリカの軍産複合体(military industrial complex)は、ジョンソンにとって無視をすることができない存在となり、冷戦終結後、ジョンソンが書いた数多くの文章に登場している。

ジョンソンはアメリカの外交政策とアメリカ帝国を批判する4冊の強烈な内容の本を上梓した。これらの本は、ニューヨークやワシントンといった権力の中枢に近い場所で書かれたのではない。ジョンソンは、カリフォルニアの海に近い、カーディフ(サンディエゴ近郊の小さな町)の小さな自宅兼事務所で本を執筆した。ジョンソンは、アメリカの外交政策に関して、最も成功を収めた年代史家、評論家となった。

2001年9月11日の同時多発テロ事件が発生する前、ジョンソンは、『ブローバック』を上梓した。2001年のニューヨークとワシントンに対するテロ攻撃の後、ブローバックは話題をさらった。出版社は注文に対応しきれず、入手困難な本になった。国家安全保障分野で、人々が最も読みたい本になった。

それから、ジョンソンは、『帝国の悲しみ』、『ネメシス』、最新刊『帝国の瓦解』を次々と世に送り出した。ジョンソンは、CIAのアレン・ダレスの顧問だったこともある人物だ。それがアメリカ政府に対する強力な批判者となった。ジョンソンは、国家の安全保障についてゴリゴリの保守派であったが、今や政治的に左翼の重要人物の一人に数えられるようになった。、

ジョンソンは、自分自身をノーム・チョムスキー(Noam Chomsky)やゴア・ヴィダル(Gore Vidal)に対比させていたようだ。しかし、私は、ジョンソンは、彼らよりももっと真剣で、経験を大事にし、政治的考えや思想の細かい点までよく知っていたと考えている。彼は様々な政治思想や考え方を遍歴したのだ。

私は南カリフォルニア・日本・アメリカ協会に勤務した。当時、チャルマーズ・ジョンソンは理事会のメンバーだった。ジョンソン、私、奥様のシーラ、そして世界で最も有能な編集者であるトム・エンジェルハートで、日本政策研究所を創設した。私がニクソン・センターの立ち上げ責任者となった時、ジョンソンは顧問の一人になってくれた。私たちは長年にわたり、建設的な関係を築いてきた。ジョンソンは私のキャリアアップと思考の深化の手助けをしてくれた。ここ数年は、関係が緊密ではなくなっていた。それは、ジョンソンのように、ワシントンを捨てる準備が私にできなかったからだ。

ジョンソンを支持する人々の多く、そしてジョンソン自身が、「アメリカは民主政治体制ではなくなってしまった、アメリカは帝国となってしまったために共和国ではなくなってしまった」と考えた。そして、アメリカ国民はそれに全く気づていないとも考えていた。ジョンソンの考えは正しい。しかし、私は、ブログ、動画サイトなどの新しいメディア、ワシントンに拠点を置くシンクタンクであるニュー・アメリカ・ファウンデーションを使って、アメリカ政府が現在行っている外交政策を何とか変更させたいと考えている。チャルマーズ・ジョンソンは私がやっていることに反対するだろうと思う。しかし、最後には理解してくれると思う。私は、ジョンソンが持っていた「アメリカは世界で何と酷いことをしているのか」という怒りを共有している。

チャルマーズ・ジョンソンとシーラ・ジョンソンは、ジョン・ボルトンの国連大使就任に対する上院の承認について反対する活動を展開していたことを知っている。ジョンソンのアメリカが帝国化するのを阻止したいという大きな希望から見れば、ボルトンは小物で、攻撃目標にするには物足りないと考えたようだ。ジョンソンの考えは正しかった、と今の私は思う。

「チャルマーズ・ジョンソンが死んだ」。いまだに信じられない。ウソだと思いたい。私には彼との楽しい思い出もあるが、同時に激しい政治的議論をしたり、日本政策研究所の研究成果の発表の締め切りをめぐり怒鳴り合いの喧嘩をしたこともある。私は、ジョンソンのように激しく率直な物言いをする、強力な力を失ってアメリカ政府や学界に挑むことを想像できないし、したくない。

数世紀も前なら「魔法使いだ」と呼ばれるような業績を残す学者や研究者はほとんどいない。社会や人間に関する法則を発見した人は多くの追従者と敵対者を生み出すことになる。

魔法使いは決して死なない。私はこの文章を読んでいる人々や彼の名前だけは知っている人たちが、ジョンソンの残した著作を読んで欲しいと願う。ジョンソンの著作を読んで、怒る人がいるだろう。多くの示唆を得る人がいるだろう。ショックを受ける人がいるだろう。非難や批判をする人がいるだろう。賞賛をする人もいるだろう。

チャルマーズ・ジョンソン、シーラ・ジョンソン夫妻については楽しい思い出ばかりだ。そのうちの一つは、二人が飼っていたロシアンブルーの猫の名前だ。猫にはそれぞれ、MITI(通産省)とMOF(大蔵省)と名付けられていた。名前の由来は、日本の政治経済をけん引した2つの省の名前だ。

チャルマーズ・ジョンソンは、外交誌である「フォーリン・アフェアーズ」誌を激しく非難していた。彼は、フォーリン・アフェアーズ誌がつまらない内容の、因習にこだわった、新味に欠ける雑誌に成り果てたと考えた。ジョンソンはフォーリン・アフェアーズ誌とそれを発行する組織である外交評議会(Council on Foreign Relations)にうんざりしていた。そこで、ジョンソンは、外交評議会に電話をし、応対した若い女性に退会を申し出たのである。

その女性は「ジョンソン教授、大変申し訳ございません。外交評議会の会員資格は終身のものですので、どなたも中途退会はできないことになっております。会員の方がお亡くなりになった時に、会員名簿から除外されることになっています」と答えた。

チャルマーズ・ジョンソンは間髪いれずに次のように言った。「私は死んだものと思ってください(Consider me dead)」と。

私はジョンソンが死んだとは信じられないし、信じたくない。ジョンソンは現代の知の巨人(intellectual giant)であった。これから何百年経っても、この時代の知の巨人と言えばチャルマーズ・ジョンソンだ、ということになるだろう。ジョンソンの業績はアメリカとは何で、アメリカはどうあるべきだということを示している。彼の業績の素晴らしさはヘンリー・キッシンジャーの業績を凌駕している。

私は、シーラ夫人と家族同様の存在であった全ての方々に対し、衷心からお悔やみを申し上げる。特にジョンソンの弟子や同僚たちにもお悔やみを申し上げたい。彼らは、ジョンソン王朝とも言うべき学統に連なる人々である。そして、サンディエゴ在住のジョンソン夫妻を手助けしてくれたご近所や友人の方々にもお悔やみを申し上げる。

(終わり)
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by Hfurumura | 2010-11-24 01:51

プレストウィッツのグローバライゼーション論

ブログの更新が滞り、誠に申し訳ありません。現在、ウェブサイト「副島隆彦の論文教室」(こちらからどうぞ。)にて文章を掲載しております。今回は、フォーリン・ポリシー誌に掲載されている、クライド・プレストウィッツの文章を皆様にご紹介いたします。プレストウィッツは、著書『日米逆転』があり、日本異質論を唱えたリビジョニスト四天王の1人です。

プレストウィッツは、今回ご紹介する文章の中で、先週行われたG20に絡めながら、「アメリカ主導の、アメリカ化を推進するグローバライゼーションは間違っていた」という主張を展開しています。経済学で唱えられる主張が間違っていて、それらを前提にしているアメリカ主導のグローバライゼーションは間違っているとプレストウィッツは主張しています。そして、ワシントン・コンセンサス(「小さな政府」「規制緩和」「市場原理」「民営化」を世界中に広く輸出し、米国主導の資本主義を押し広げようとする動き)を基にしたグローバライゼーションではなく、北京・ベルリン・コンセンサスという、中国とヨーロッパが協調して推進されるグローバライゼーションが台頭してきていると主張しています。

北京・ベルリン・コンセンサスについて説明が不足していて分かりにくいのですが、「アメリカ主導の世界は終わりつつある」ということを述べていると思います。

それでは拙訳をお読みください。

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●「グローバライゼ―ションはどうして機能しないのか(Why globalization isn't working)」

クライド・プレストウィッツ(Clyde Prestowitz)
2010年11月15日
フォーリン・ポリシー誌(Foreign Policy)・ゲストブログ欄

コロンブスがやはり正しかったということが明白になった。世界はフラットではないのだ。先週、オバマ大統領は韓国のソウルで開催されたG20に参加したが、G20がオバマに教えたことは、「世界はフラットではない」ということだ。

G20は会議の最後にコミュニケを発表した。その内容は残念ながら私が予想した通りのものだった。コミュニケには、永続的な調和、合意、成功などの抽象的な文言がちりばめられていた。これまでのG20のコミュニケの中身から見ても、今回のコミュニケの内容は漠然としたものになってしまった。今回のコミュニケが示しているものは、G20内にある混乱と亀裂、会議自体の失敗、そして、現在のグローバライゼーションの形態の究極的な失敗である。

著名な経済学者、専門家、大企業のCEOたち、政治家たちは、クリントン元大統領の主張に同調していた。クリントンの主張とは、「グローバライゼーションの進行によって全ての国を豊かになる。国が豊かになればその国は民主政治体制になり、民主的になることでそうした国は平和を愛するようになる。結果、世界は理想郷(Nirvana)になる」というものだった。クリントンの主張の本質は、「グローバライゼーションによって世界中の国々はアメリカのようになる。グローバライゼーションとはアメリカナイゼーション(Americanization)ことなのだ」ということに尽きる。

しかし、先週ソウルで開催されたG20ではそんな話は全く出なかった。時代遅れのワシントン・コンセンサス(Washington Consensus)が語られる代わりに、北京・ベルリン・コンセンサス(Beijing-Berlin Consensus)について多く語られた。G20において、世界経済が抱える貿易収支と経常収支の巨大な不均衡を是正する必要があるという結論は出された。しかしそれはリップサービスに過ぎない。オバマ大統領は席上、ドイツは内需拡大について真剣に考慮すべきだと発言した。オバマの発言に対して、他の出席者たちからは、「ドイツの内需拡大策は現在行われていないので不可能なことだ」という、オバマを諌めるような反対意見が出された。中国の代表は次のように発言した。「現在のグローバライゼーションについては以下の条件がある限り支持する。条件とは、アメリカが消費をし続けながらも経済刺激策を行わない。また、世界の消費をけん引すると同時に世界の安全保障の担うことである」

北京・ベルリン・コンセンサスはアメリカの景気回復のために機能することはないし、バラク・オバマの大統領再選にも資することはない。

アメリカナイゼーションとしてのグローバライゼーションとフラット化する世界という考え方はどこで間違った方向に進んでしまったのか?

その前提が間違っていたのだ。馬鹿げていたのだ。有名無名問わず経済学者たちは「企業は経済的に競争しているが、国はそうではない」と主張してきた。この主張を皆さんはどれほど聞いただろうか?中国人、ドイツ人、日本人、韓国人、台湾人、フランス人、シンガポール人、スウェーデン人にも聞いてみたい。この主張は間違っていることは明らかだ。

「資本、技術、人間は国境を越えることはない」と「完全雇用が常に達成される」というアメリカの自由貿易理論の2つの前提について考えてみよう。これらが間違っていることは明白だ。それでは、「全ての市場は完全な競争が保証されており、多くの競争者たちがいるため、1人の競争者が製品の生産量や価格の決定について影響力を及ぼすことはない」という前提はどうだろうか。これも間違っている。「自動車、鉄鋼、半導体、航空機のような産業は、影響力のある競争者がいる市場が存在したら、成り立たなかっただろうし、貿易もできなかったであろう」という前提はどうだろうか?これも間違っている。

私は経済学で唱えられいる主張がいかに非現実的かを示した。しかし、アメリカの国際経済政策は、長年、そうした非現実的な主張を基にして決められてきた。オバマ大統領が雇用を創出し、アメリカが国際経済のリーダーの地位を再び獲得し、自分自身が大統領に再選されたいと望むならば、これまで当然だと考えられてきた諸前提が本当に正しいのかどうか考え、グローバライゼーションには現在の形態と異なる形態のものがあるということを受け入れなければならない。北京・ベルリン・コンセンサスを基にしたグローバライゼーションは、アメリカナイゼーションではないということだけではなく、反アメリカナイゼーションであるという点を抑えておかねばならない。

クライド・プレストウィッツ(Clyde Prestowitz):経済戦略研究所(Economic Strategy Institute)所長。著書『アメリカの繁栄の行き着く先』がある。
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by Hfurumura | 2010-11-16 15:39