翻訳、評論の分野で活動するSNSI研究員の古村治彦のブログ
by Hfurumura
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カテゴリ:福島( 10 )

学問道場福島復興活動本部訪問記

アメリカ政治の秘密

古村 治彦 / PHP研究所



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2012年10月16日から18日まで、「副島隆彦の学問道場」福島復興活動本部(以降は活動本部と表記します)を訪問してきました。今年の6月以来、4か月ぶりの訪問となりました。今回は、活動本部に常駐している、吉見理さんに会い、何か足りないものはないか、不便はないかということを聞いて、もし何かあれば解決するということが目的でした。今回、何も大きなトラブルもなく、自動車のタイヤが釘を踏んでいてパンクしていたのを修理してもらうくらいでした。

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活動本部がある田村市都路は、朝の気温が摂氏6度に下がるほど寒くなっています。朝夕は石油ストーブをつけたほどです。夜になると、外に出れば息が白くなり、秋が深まっていることを実感します。吉見さんは、活動本部で一冬を過ごしたので、「こんなことで驚いてちゃいけませんよ」「冬になればもっと寒くなり、雪も多いんですから」と笑って話してくれました。

14日は午後3時過ぎに活動本部に到着しました。私の住んでいる関東近郊からは、新幹線、在来線、路線バスを使って3時間ほどで着きます。本部に着いて、中の様子を見て、その後、吉見さんから6月以降の話を聞きました。

先週、都路の隣の川内村を天皇、皇后両陛下がご訪問になり、その時には警備の警察官や歓迎する人々で大変な人だかりだったそうですが(吉見さんもその中に入り、天皇、皇后両陛下が自動車で通られるのを見たそうです)、今はいつものように静かな状況です。川内村にはだいぶ人が戻り、ラーメン屋さん、すし屋さん(昼は定食もやっている)も営業を再開したということでした。

翌日(17日)は自動車のタイヤのパンクの修理に手間取り、夕方になってしまい、雨も重なって、本部にいることになりました。タイヤは釘を踏んでいて、そのタイヤの修理に2時間以上かかりました。修理が終わったので、翌日は川内村にまで行くことにしました。この日は活動本部にかかわる事務的なことを見せてもらいました。

18日は、前夜に少しお酒を飲み、それが残っていて元気が出なかったのですが、車を運転して川内村まで行ってきました。吉見さんは自動車運転免許を持っていないので、自転車で15キロほど離れた川内村まで行くとのことでした。川内村には、以前にもご紹介した「かわうちの湯」という温泉がありますので、それに入りに行くということです。

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川内村では警戒区域の解除でだいぶ人が戻っており、先ほど書いたラーメン屋さんなどだけでなく、酒屋さんや衣料品店も再開していました。これは6月には見られなかったことです。路線バスも再開しました。

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川内村に人が多いのは、除染作業をやっていることが原因の一つとして挙げられます。家の外壁や自動車、山林などを除染しています。除染に関わっているのは、地元の建設業者だけでなく、県内、県外の人たちもいるようです。県外の自動車のナンバー(庄内、福岡、大分など)を見ました。写真にある黄色のタンクに水を詰めて、それで除染をしていますが、流した水はそのままだし、地元の学校のプールにあった水で除染をしていたということですから、それなら極端な話、雨が降るのに任せても良いのでは、と思いました。

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昼前に、川内で営業再開した「川幸」という寿司屋さんに行きました。川幸は、お昼は定食もやっていて、二人で焼き魚定食をいただきました。ムツと秋刀魚を頼んだのですが、大きな秋刀魚が出てきました。新鮮な、大きな秋刀魚を寿司屋で食べることができるというのは、当たり前じゃないかと言われるかもしれませんが、ほんの数か月前のことを考えると、信じられない思いでした。

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お店の中には、NHKのキャスター大越健介さん(東大野球部史上屈指の名投手の一人)や、日本テレビ、日本経済新聞社や地元のテレビ、ラジオの取材陣が書いた色紙が貼られていました。また、除染作業を行っている作業服姿の人たちも来て、お店は繁盛していました。

午後のバスで都路から帰る予定にしていたので、川内村を見て、そのまま帰ってきました。活動本部に帰る途中、都路の高台にある都路中学校に行ってみました。都路中は、現在、除染作業員の宿泊所、待機所になっており、ここにも県外ナンバーを含め、多くのトラックや自動車が止まっていました。そして、昼の休憩が終わったであろう午後1時過ぎ、一斉に作業のために、自動車に乗って出ていく人々の姿が見えました。ちなみに除染作業をしている人たちはマスクや防護服を着ています。

活動本部に戻り、荷物をまとめて路線バスに乗り込みました。都路からJR磐越東線の船引(ふねひき)駅までは約50分かかります。その間の田んぼはお米を作っている様子もなく、そのままになっていました。しかし、磐越東線で郡山に向かう途中の田んぼでは、稲の収穫も終わり、収穫した稲を干しているところが見られました。

少しずつですが、日常に戻りつつあります。完全に大震災の前と同じというわけにはいきません。それでも人々が戻り、生活が始まるとバスが通り、お店が開く、道端で談笑している、こういうものを見ると、やはり良いものだし、数か月前からしたら大変なことだと単純に嬉しくなります。

しかし、今のところ、大きな産業が除染と役場の仕事というのはやはりいつまでもは続かないものです。元々、高齢化が進み、過疎が進んでいるという日本の地方が共通して抱える問題を都路にしても、川内村にしても抱えているのですから、大震災前に戻るということは、結局、高齢化、過疎化が進行するということになります。カンフル剤が効いていても、いつまでもカンフル剤ばかりは投与し続けられないということになります。

 大震災からの復興がなっても、結局人がいなくなるということもあり得ると私は思います。何か振興策を考えると言っても、それは今までさんざんやったよ、たくさんの人が考えてきたよと言われると、残念ながら何も言えません。

 人々の生活が戻って素晴らしいことだと思いながら、その先はどうなるのかということを考えると手放しでは喜べないのだなという気持ちになりました。

アメリカが作り上げた“素晴らしき"今の世界

ロバート・ケーガン / ビジネス社


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by Hfurumura | 2012-10-19 17:04 | 福島

学問道場福島復興活動本部滞在報告記④

副島隆彦の“予言者”金融セミナー第2回『大災害から復活する日本』発刊記念講演DVD

副島 隆彦 / 成甲書房



 都路滞在5日目(11月4日)はご近所にあいさつ回りをしました。ある会員の方々からミカンをたくさんいただいたのと、『放射能のタブー』が本部に届いたので、ミカンと本を持参して数軒のお宅を訪問しました。そのうちの2軒では家に上げていただいてお茶をご馳走になりながらお話を聞くことができました。

 一軒目は都路で造園業を営んでおられるおうちです。ご主人は東京でも生活をされていましたが、今から10年ほど前に帰郷され事業をされています。私は初めてお話を聞くので、まず地震当日のお話をお聞きしました。「「当日は南相馬市の原町にいた。自分の5メートル手前まで津波が来た。そのときは、津波だとは分からなかった。ただ、道沿いの田んぼに水を張っているんだろうと不思議に思った。そしたらそれが津波だったわけさ」とご主人は話してくれました。今回は大津波で多数の犠牲者が出ましたが、その中には津波だということを咄嗟に気付くことができずに巻き込まれた方々もいらしただろうことは推察できます。ご主人は海沿いの道ではなく、山の方の道を迂回してようやく都路まで帰ってきたということでした。

 次に原発で事故が起きた直後のことをお聞きしました。ご主人は「ここら辺の数値は、飯館村なんかに比べて低いでしょ。私は漁師をしていた経験もあるんだけど、この時期の風は南風だから、放射能物質は飛んでこないと思ったんだよ。それで避難する必要がないと判断した。私たちがここにいたら、まず大熊町の人たちが都路に逃げてきた。そして翌日にはもっと先まで避難していった。ここらへんでは、40人くらいは避難指示があっても避難しなかったと思うよ」とお話ししてくれました。

 いろいろなお話の中で、やはり生活のことに話題が及びます。「補償はこれからだ。今は東電から一時金100万が払われて、とりあえず住民も抑えているが、この後に除染や補償の問題が本格化する。自分もそろそろ東電の船引の賠償相談窓口に怒鳴り込もうかと思っている。従業員の給料を払わないといけないから。行政局にも怒鳴り込んだ。とりあえず従業員の休業補償はとった。だが、事業が継続できなくなった事とか東電はどうするんだ」ということをご主人は言っていました。冬に向けて寒さも厳しさを増す中で、生活の不安も大きくなっていくということでした。

 最後のご主人は「5キロ圏内はこのまま最終処分場にするしかない。他にもっていくところがない。それでね、原発から19キロのところに畜産をずっとやってきた、ここらでは有名な頑固親父が避難もせずに残って生活しているよ。俺も畑があるから見に行きたいんだがね」という話もしてくれました。

 それから、近所の方で何かとお世話になっているYさんのお宅に伺いました。裏山の樹木の剪定を終えゆっくりなさっているところにお邪魔したにもかかわらず、コーヒーやお菓子をご馳走になりました。Yさんと奥さんは、吉見さんに本部の様子を尋ね、これから冬に向けて対策をするようにということを話してくれました。都路でも雪が30センチも積もることがあり、車の運転は大変危険だから、慣れていない人間は運転しないように、ということでした。冬の寒さは鹿児島育ちで、冬の時期には東京までしか行ったことのない私には想像もできないことです。

 吉見さんが「都路の小中学校は10キロ先の春山小学校に仮校舎を建てていますよね。子供たちは、非難は大変だけど、コンビニにいけるような場所に避難できて良かった、と内心思っているんじゃないですかね」と言ったところ、Yさんの奥さんは、「そんなことないよ。よそから来た子だから、ケンカに弱い子らは苛められてるんだ。しかも、よそから来て間借りしている身だから言い返せないんだ。自分の家がいちばん良いさ」と仰っていました。

 Yさんに「東京の皆さんは福島に行ってみたいなんて仰るかね」と聞かれたときにはちょっと答えに詰まりました。私の周りではそんな話をしないからです。それでも九州に住む母はご縁がなかった福島にも行ってみたいものだと言っていますから、そのことはお伝えしました。「春になると桜がきれいだからいらっしゃると良いよ」とYさんは仰いました。

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都路の様子

 11月4日の夜は滞在最終夜ということで、吉見さんとお酒を飲みました。首都圏で育った吉見さんが自然は豊かだが人は多くない場所で、元スーパーの建物で独り生活するというのはどういう気持ちなのかということなどについて教えてもらいました。「出家をし、修行をしているようなものと言えるかもしれませんね」と吉見さんは笑いながら話してくれました。私には名利も求めず、ぜいたくな生活もしない吉見さんの方が、そこらの生臭坊主に比べてずっと立派なように感じました。

 深夜お酒を飲んでいると、防災無線が作動し、消防団員に集合がかかりました。緊急車両も近くを走るようになり、「何事だろうか」と心配になりました。緊急無線では都路古道山口地区で火事が発生したということでした。1時間ほどで鎮火したという無線放送があり安心しました。これは私の勝手な想像ですが、原発が事故を起こした時、恐らくこのような防災無線ですぐに避難するようにという指示があったのでしょう。そして、不安におびえながら皆さんが避難されたのでしょう。私は一瞬、「原発で何かあったのではないか」という思いに駆られました。そして恐怖を覚えました。火事であることを知ってもどこか怖さを感じていました。自分の小心さには今驚くばかりです。しかし、暗い中で自分がどうしようもない状態にあると思うと恐怖を感じた、ということはここに記録しておかねばなりません。

 私はこの時期に都路を再訪し、とても良い経験ができたと思っています。首都圏にいると地震や原発事故について忘れがちになります。一日中地震や原発事故のことを考えることは不可能です。それでもたまには考えること、そして実際に行って、自分の目で見て体験してみることはとても重要なことだと改めて思いました。頭の中でいくら想像してもそれは現実に限りなく近づくことができても現実ではありません。「そんなことは当たり前だ」と仰る方もいると思いますが、今回の原発事故に関してはそれが当たり前ではなくなっています。「できるだけ自分の目で見、耳で聞き、手で触る」ということはヴァーチャルな便利さが進んでいく時代に重要なことであると思います。

 放射能についてですが、ご心配の方も多いと思います。都路では、防災無線で放射線の測定値を毎日発表しています。その数値はインターネットでも見ることができます。どうぞご覧ください。これだけの数値なのです。どう判断するかは読む人によりますが、私は1週間弱滞在しましたが健康には影響がないと考えます。都路からまた更に離れた場所であれば尚更心配なく、日常生活を送ることができると考えます。
※田村市による環境放射線モニタリング測定値が発表されているウェブサイトのアドレス→ http://www.city.tamura.lg.jp/tamura_saigai/kankyo_ph_2.jsp#ooaza-moni

 私が住んでいるところからほんの2、3時間の場所に原発事故において日常生活を送れる場所とそうではない場所を区切る境界線があります。この境界線は事故直後に半径30キロ圏に引かれ、その後20キロ圏に引きなおされました。その根拠は何なのか、いまだによく分かりません。放射能測定モニタリングの数値でもないようです。そして人間が年間に浴びても問題ない数値を巡って大きな議論となっています。

 「数値が年間1ミリシーベルトを超えると危ないんだ、人がたくさん病気になってしまうんだ」と思っている人たちからすれば、今回の私の都路滞在は「わざわざ危ないところに行って狂気の沙汰だ、馬鹿な奴だ。師匠の副島隆彦に騙されたか、狂信的な弟子なのだろう」ということになるでしょう。それでも福島には、都路には現実の生活があります。頭の中で想像と恐怖を膨らませるだけでは済まないのです。ちなみに人間が1年間に浴びる放射線量は世界平均2.4ミリシーベルトであると言われています(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88)。

 放射能を怖がることは当然のことだと思います。また、放射能について恐怖心を増大させるような情報だけを頭に取り入れることも自由です。しかし、福島で現実の生活をしている人々にも現実の生活を送る権利と自由があります。それに対して非難をするだけでなく、その人たちが普通の生活を送れるように見守り、協力していけるようにすることが、「ほんの少し離れた場所にいる」私たちのやるべきことではないかと私は思います。

 最後に都路にある旅館「みや古旅館」のご主人(元高校球児で甲子園出場経験有)が旅館の一室から掲げているメッセージを掲載します。

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(終わり)

放射能のタブー

副島隆彦+SNSI副島国家戦略研究所 / ベストセラーズ


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by Hfurumura | 2011-11-13 22:04 | 福島

学問道場福島復興活動本部滞在報告記③

都路滞在4日目(11月3日)は文化の日ということで都路から10数キロ離れた常葉(ときわ)町で「新蕎麦祭り」が開催されるということで吉見さんと出かけました。正式な名称は「あぶくま高原 新そばまつり」で、田村市・いわき市・小野町・川内村・平田村・葛尾村の団体が新蕎麦を販売するというものです。

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蕎麦の出店の様子

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新蕎麦(すっきりした味わいでした。大変美味しくいただきました)と蕎麦打ちの様子

蕎麦以外にも山の幸を中心に出店が出ていて、またステージも設置され、様々な出し物がありました。

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民謡大会の様子(子供たちが大変上手に歌っていました)

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猪の肉の串焼き

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イワナの串焼き

 駅伝大会も同時に開催され、小中高、大学社会人まで各世代の選手たちが参加していました。都路では小中学生を見かけませんので、子供たちが楽しそうにしている姿を見るのは感動的でした。月並みな表現ですが、当たり前のことができることのありがたさを改めて実感しました。また、この地方の食べ物の豊かさも再確認できました。
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by Hfurumura | 2011-11-12 17:37 | 福島

学問道場福島復興活動本部滞在報告記②

放射能のタブー

副島隆彦+SNSI副島国家戦略研究所 / ベストセラーズ



 滞在2日目(2011年11月1日)、本部にある自動車を運転して、川内村に向かいました。都路の隣にあるのですが、都路は「平成の大合併」で田村市となりました。元々はお隣同士の村でした。ここには村役場の側に町営の温泉施設である「かわうちの湯」(http://www.kawauchimura.com/onsen.html)があります。

 この施設は露天風呂やレストランも完備されていた施設なのですが、2011年3月11日の大地震のために露天風呂が故障してしまいました。現在は、大浴場(サウナやバブル風呂がある)だけを午後1時から8時まで営業しています。料金は100円という格安の値段です。来月には全面改修に入ってしまうので営業をしなくなるのですが、それまでは100円で温泉を楽しむことができます。泉質はぬるぬるした感じです。100円で入湯するのは申し訳ないほどです。皆さま、是非遊びに行ってみてください。タオルなどは持って行ってください。来月には本格的な補修作業が開始されますので、閉鎖される予定です。行かれる際にはご注意ください(かわうちの湯の電話番号は0240-39-0103です)。

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かわうちの湯の外観

 滞在3日目(11月2日)には、都路から20キロほど離れた船引(ふねひき)に行きました。本部では基本的に自炊をしていますので食料の買い出しと船引にある仮設住宅を見学しました。船引は郡山からも20キロほど離れた場所にあり、郡山のベッドタウンとして新興住宅地のようになっている場所もあります。

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船引の住宅街。この側に仮設住宅が建設されている

 新興住宅地の側にある市営グラウンドに仮設住宅が建設されています。全体で100戸ほどの仮設住宅があり、バリアフリーになっているものや少し広めのものがあります。駐車スペースも整備されています。集会所は2か所あります。高台のグラウンドにあり、近くのショッピングセンターまで1キロ以上はあるので車の運転ができないお年寄りなどは大変だろうと思いました。車が運転できれば買い物などには苦労は少ないのではないかと思います。

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仮設住宅の案内図(世帯で大きさが違うユニットもあります)

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仮設住宅の様子

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集会所の建物(全体としてバリアフリーになっています)

 船引には駅前に商店街があり、そこから1キロほどのところには巨大なショッピングセンターがあります。ダイソー、スーパー・リオンドール、ドラッグストア、ツタヤ、ドトールコーヒー、ケンタッキー・フライド・チキン、ホームセンター(生鮮食料品有)のダイユーエイトが1か所に集まっています。土日は広い駐車場が満車になるのだそうです。

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ショッピングセンターの様子

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ツタヤの書籍コーナーにて(『放射能のタブー』はありませんでした)

 ショッピングセンターの近くの空き店舗(以前は本屋さんだったそうですが閉店して空いていたそうです)に東京電力の「郡山補償相談センター 賠償相談窓口」が開設されていました。常に誰かが外に立つなど不必要な人数が無駄な場所に割かれている印象でした。駐車場から通る人や車を監視しているかのようで、大変な威圧感を覚えました。ここに相談に行くというのは普通の人には勇気がいることだろうと思いました。船引にある地震や原発事故の被害を直接外部の人間にも分かるものは、仮設住宅と東電の相談窓口だけでした。

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東電の相談窓口

(つづく)

副島隆彦の“予言者”金融セミナー第2回『大災害から復活する日本』発刊記念講演DVD

副島 隆彦 / 成甲書房


(つづく)
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by Hfurumura | 2011-11-12 10:11 | 福島

学問道場福島復興活動本部滞在報告記①

放射能のタブー

副島隆彦+SNSI副島国家戦略研究所 / ベストセラーズ



2011年10月31日から11月5日にかけて、「副島隆彦の学問道場」福島復興活動本部に滞在してきました。本部には、吉見理(よしみ・おさむ)さんが2011年6月から継続して滞在し活動しています。吉見さんは、『放射能のタブー 悪魔の用語辞典<3>』に「福島復興活動本部 活動日誌(2)」を寄稿し、現在もウェブサイト「副島隆彦の学問道場」の掲示板「重たい掲示板」(http://www.snsi.jp/bbs/page/1/)に定期的に活動日誌を掲載しています。今回の滞在中には、吉見さんには大変お世話になりました。この場を借りてお礼を申し上げます。

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田村市の地図(都路が20キロ圏のすぐ外にあることがお分かりになると思います)

2011年10月31日(月)午後3時、私は福島県田村市都路町にある活動本部に到着しました。東北新幹線で郡山に向かい、磐越東線(ばんえつとうせん)で郡山から船引(ふねひき)、福島交通の路線バスで船引駅前から終点(古道車庫)までを乗り継いで、私が住む埼玉県から約3時間の行程でした。
※都路までについては福島交通のウェブサイトを参考になさってください。アドレス:
http://www.fukushima-koutu.co.jp/bus/map/02index_ono.html

活動本部は、以前はスーパーとして使われていた建物です。1階は事務所と台所、2階は居住スペースとして使用しています。

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学問道場福島復興活動本部の建物

到着してしばらく話をし、まずは都路の町を吉見さんの案内で歩き回りました。まずは田村市が設置している都路行政局です。都路は元々都路村でしたが、市町村合併で田村市となりました。行政局は昔の村役場です。行政局はサービスを復活させ、夜には宿直をしている職員もいます。

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都路行政局

その後、高台にある都路中学校に向かいました。都路には小中学校があるのですが、現在子どもたちは避難していて、両方とも閉鎖されている状態です。両校とも地震によって土砂崩れや地面の亀裂といった被害があるのですが、生徒たちがいない為に補修も後回しになっています。小学校では地震の被害がだいたい片付いた後に、台風による豪雨でがけが崩れ、校庭の真ん中に崩れた土砂と木が集められている状態です。

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高台にある都路中学校。地割れに応急処置。

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都路中学校。建物の側の砂の山は除染で取り除かれた表土

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都路小学校の校庭の様子。

町を歩いているうちに午後5時になり、辺りはすっかり暗くなりました。昼間は暖かかったのですが、太陽が沈むと気温が急速に下がっていきます。やはり東北の山間部は秋の訪れが早いです。夜になると外の気温は摂氏3度にもなり、息を吐くと白くなるほどです。

(つづく)

バーナード・マドフ事件 アメリカ巨大金融詐欺の全容

アダム・レボー / 成甲書房


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by Hfurumura | 2011-11-11 20:57 | 福島

福島合宿に行ってきました

ネクスト・ルネサンス 21世紀世界の動かし方

カンナ,P. /



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先週金曜日(2011年8月5日)から昨日の月曜日(2011年8月8日)まで、「副島隆彦の学問道場」が設置している、福島復興活動本部で行われた合宿に参加してきました。土曜日、日曜日には放射能、原発事故について参加者がそれぞれ調査、研究したことを発表し、相互に批評・論評を行いました。

8月5日昼過ぎに副島先生や弟子仲間と東京駅に集合し、東北新幹線で郡山に向かいました。そして郡山から、福島第一原発から半径20キロ圏内のすぐ外(田村市)にある本部に向かいました。本部には吉見おさむ君が常駐しています。吉見君には久しぶりに会いましたが、常駐生活で見違えるように立派な姿になっていました。吉見君の輝くような姿を見て、自分を顧みて、自分の情けない姿を恥ずかしく思いました。

5日は本部の近くにある旅館に泊まりました。この旅館は地震から1か月ほどして経営を再開したそうです。この旅館は食事がおいしく、地元の人たちが宴会や会合に使っているようです。昔の街道に面して建てられている由緒ある旅館です。

8月6日は朝から本部に行き、掃除や草取りなどを行いました。昼前から合宿、研究発表参加者が集まり始め、午後2時から発表が始まりました。それぞれの個性が出ている発表でありました。個人的には調査をもう少し深めねばならないと痛感しました。

夕方からは本部で夕食作り、そして懇親会になりました。福島のお酒も飲みましたが、少し甘口の優しい味のお酒を痛飲しました。私はそのまま本部に宿泊しました。

次の日、8月7日は研究発表の合間に、本部の自動車を使って送り迎えを行いました。最寄駅のJR船引まで2往復をしましたが、その間の道路は立派なものです。この道路を使えば、郡山から福島第一原発まで一般道路を使っても2時間程度で行くことが可能です。今は20キロ圏内は立ち入れませんが、自民党・民主党の有力政治家であった渡部恒三や、県知事佐藤栄佐久といった人々、古くは木村守江県知事といった人々の力で道路が整備されたものと思われます。福島は概して道路がよく整備されています。ですから移動について大変さが軽減されます。

8月7日の夕方までに発表は終わり、帰る人たちを船引駅まで送りました。この発表の成果が本として出版されることになると思います。その後、本部に引き返し、残ったメンバーと近くの旅館で夕食を食べ、男性たちは本部に戻り、また懇親会となりました。懇親会では、吉見君や他のメンバーであまり会う機会のなかった人たちとゆっくり話ことができ、有意義でした。吉見君からは特に日本のサブカルチャーについて断片的ですが話を聞くことができました。

翌日(8月8日)の午前中に船引駅まで送ってもらい、郡山経由で新幹線に乗り、東京に帰ってきました。

地元の方と話したことで興味深いことを一つ。雑誌やインターネットで「乳幼児で鼻血が出ている」「健康に重大な被害が出ている」と報道されていますが、郡山ではどうですか、と質問したところ、「自分の周りではそんなことは起きていない」と答えてくれました。

以上、はなはだ簡単ではありますが、報告します。

日本再占領 ―「消えた統治能力」と「第三の敗戦」―

中田 安彦 / 成甲書房


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by Hfurumura | 2011-08-09 15:59 | 福島

福島訪問記②

ネクスト・ルネサンス 21世紀世界の動かし方

カンナ,P. /



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講演会が2時間ほどで終了し、その後は午後6時まで歓談が続きました。私はそこで近所にお住まいの還暦を過ぎた女性からお話を伺うことができました。

その方は3月11日の地震では大きな被害を受けなかったのですが、12日以降、避難を余儀なくされ、関東地方の親戚のうちに行き、その後、避難所に移ったのですが、避難生活2ヶ月ほどで家に戻ってこられました。今は自宅で生活しています。身の上話と共に避難生活について語ってくれました。

まず心に残った言葉は、「避難所から避難してきた」という言葉です。避難所は快適で三食昼寝つきで出たがらない人たちがいるという話もありますが、避難所の生活の実態を聞くと、避難所にいたくていると言う人は少ないのではないかと思いました。広い体育館で段ボールで仕切られていますが、プライバシーが制限され、生活していれば誰かの目に常に触れてしまいます。ご老人で支給される食べ物の量が多くて残すようなことがあると非難される、味付けが濃くて薄めようとしても注意されるというようなことがあるのだそうです。そういうゲシュタポ化する人々と一緒に生活するというのは大変なことです。ものを捨てるのでも、中身が分からないようにしなくてはいけません。また、移動するときにも「どこに行くんだ?どこに行ってきたのか?」と言われることもあったそうです。

また、避難所自体は仕方がないことですが、どうしても掃除が行き届かず、埃っぽくなり、呼吸器系を痛めてしまう例が多いのだそうです。私が話を聞いた方はマスクをして寝ていたということでした。寝苦しいが肺炎になって救急車で運ばれるよりはと思って我慢したそうです。そして、何より危ないと思ったのは、働き者だった自分が何もすることがなく、体を動かさなくなることで、それで家に帰れるようになったらすぐに帰ったそうです。家に帰れば家の掃除、庭の草取り、田んぼの草取り、お寺の掃除と草取りと大忙しだそうです。「避難所にいれば三食出るし、何でもものが貰えるが、それを何とも思わなくなったらお終いだ」とその女性は語っていました。

また東京電力からの仮払金はすでに振り込まれているということで、地震で倒れたお墓を元に戻すことができるので良かったというお話もしていました。

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↑復興活動本部から風力発電用の風車を望む↑

その日の夜は旅館に宿泊し、そこでも地元以外で東京やその他の場所から参加された皆さんとお話をすることができました。私はお酒は弱いのですが、おいしいお酒だとついつい飲んでしまって後で後悔するということをやってしまうのですが、会津から参加された方と会津のおいしい日本酒の一升瓶を間に置いて、さし向いで色々とお話をし、深夜までお酒を飲みました。会津の銘酒は飲みやすくて、おつまみなしでついつい杯を重ねてしまいました。次の朝に「飲みすぎたぁ、頭が痛い、寝不足だ」ということになりましたが。

私は鹿児島の出身で、「福島県では鹿児島から来たと言うと、戊辰戦争のことなどで非難されたり、冷たい反応をされたりする」というような都市伝説と言うか、噂話を聞いていましたので、話の途中で出身地の話になって少し緊張しましたが、「今はそんなことはないよぉ」というような話や、福島県内の政治についてのお話を聞いたりという有意義な時間でしたが、やはり二日酔いで朝ご飯が食べられなくなるほどお酒を飲んではいけないと反省しました。

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↑講演会の様子↑

6月5日は本部開きとミニ講演会の二日目です。この日から参加する皆さんや地元の方々が三々五々集まり、二日目のスタートです。バーベキューの食材は全部地元で買ったり、差し入れでいただいた取れたての野菜ばかりです。きゅうりは味噌をつけて丸かじり、トマトは何もつけずに丸かじり、レタスはマヨネーズをつけてほおばるといった感じで豪快に食べる、お肉も県内産をおいしく頂きました。福島県は農産物が豊かな農業県ですが、原発事故の影響で、農業が打撃を受けました。私の出身の鹿児島県もまた農業県であり、同じように県内に原発を抱えています。ふるさとを思う気持ち、それは多くの人々にあるものです。そのふるさとを失うか瀬戸際にあるという感情はどんなものか、実際にそうなってみないと正確には分かりませんが、想像することはできます。

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↑防護服も展示されました↑

二日目もほぼ同じスケジュールで、事務所開きと講演会が行われました。参加人数は前日とほぼ同じでした。地元の方々も前日よりも多くいらっしゃいました。この日は疲労もあり、なかなか頭と体が動いてくれませんでしたが、なんとか乗り切ることができました。



夕方になり、スケジュールが終了し、片づけにあまり参加できないことを申し訳ないと思いながら、本部を後にして郡山に向かいました。

今回お世話になった地域は20キロ圏内に近いということで小中学生は遠く離れた学校に避難しており、空家になっている家も多くありました。しかし、少しずつ帰って来る人々も増え、日常が戻りつつあります。自動販売機も作動し、お店も再開しています。生活が既に再建に向かっています。行政区では朝晩災害無線で放射能の線量検査の結果も発表しています。それを単純計算してこれがずっと続いたら年間線量がどれほどになるということをやっても10mSVには届きません。「1mSVじゃないから危険」と言う人たちからすればそれでも危ないということなのかもしれません。しかし、世界中で自然に浴びる放射線量が平均2.4mSV、日本では平均1.4mSVだと言われています。平均が単純に真中を示していないことは分かりますが、それでも1.0mSVと言えば、それ以上の場所では、生きていけないのか、ということになります。

福島県で生活をしており、また福島県でしか生きていけない事情がある人たちが生活の場から離れることなく、少しでも安心して生活できるようにすることが、政治の責任です。東京電力、保安院、経済産業省、自民党、各地方自治体、GEの責任を追及することは当然です。これも政治の責任です。しかし、今の民主党の政治家たちは福島県で生活をしていく人々に対して少しでも安心を与えようということを放棄しているように思われます。

今回は地域の皆さんにもお世話になり、福島県産の食べ物やお酒を堪能することができました。福島は広い県で、それぞれの地域が大変魅力的な場所です。歴史や伝統のある所が多く、食べ物も美味しいです。「あんな場所になんか行けるか」とお思いの方々に福島県に行ってみてくださいと申し上げて、考えを変えてもらえることは私の文章力では無理なことは分かっています。しかし、それでも少しでも行ってみたいと思われる方は、是非福島県に遊びに行ってみてください。

百聞は一見に如かず、とは余りにも使い古された表現ですが、これに尽きます。そして一度でも足を運んだ場所のことは、行く前よりも、自分のこととして考え、思えるようになると思います。それもまたひとつの支援の方法ではないかと私は考えています。

(終わり)
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by Hfurumura | 2011-06-07 17:21 | 福島

福島訪問記①

ネクスト・ルネサンス 21世紀世界の動かし方

カンナ,P. /



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2011年6月3日から5日かけて、「副島隆彦の学問道場」の「福島復興活動本部」の本部開きとミニ講演会に参加してきました。梅雨に入って雨模様の毎日が続いていましたが、復興活動本部の本部開きとミニ講演会では天気に恵まれ、日曜日の夕方から雨が降ってきましたが、ほとんど影響はありませんでした。

2011年6月3日午前9時16分発の東北新幹線で郡山に向かいました。午前10時56分に郡山に到着し、腹ごしらえをし、ある方のご好意で自動車に同乗をし、復興活動本部に向かいました。福島県は日本で3番目の面積を誇る県で、自動車が生活必需品となっています。ですから、道路がよく整備されています。自動車で約1時間ちょっとで20キロの検問に到着しました。

検問で警備に当たっている警察官の方とお話をしました。この日は、富山県警の応援部隊が警備に当たっており、実はこの日が最終日で、翌日から静岡県警と交替するということでした。滞在している間、パトカーが多く通りましたが、福島県警、大分県警のパトカーを確認できました。検問の雰囲気はピリピリしたものではなく、穏やかなものでした。

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↑検問地点の様子↑

その後、復興活動本部に到着しました。本部の場所は、「福島第一原発の20キロ圏の外側で、21キロ地点でJR郡山駅から、ひたすら真東(まひがし)に向かって30キロの地点」にありました。

元店舗というこで多くの人たちが入れるスペースと、少人数であれば休憩できるスペースが備えてある建物です。ここでしばらく休憩し、それから6月4日、5日に開催する復興活動本部開きとミニ講演会の準備に入りました。机やいすを用意し並べ、食材を準備しました。

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↑本部建物↑

午後5時になると、地域の防災無線で行政区で計測された放射線量の値が放送されます。しかし、20キロ圏からすぐの地域にはそれを聞く人はあまり多く残っていません。小中学生はさらに離れた学校に行っており、また、避難所に避難している人たちも多くいるからです。それでも旅館やお店を開いています。

3日は多くの人間が宿泊することになったため、復興活動本部と近くの旅館に分宿しました。私たちが食事をしていると、地域の人たちが三々五々集まってきました。大広間で会議が行われるということでした。

その日は早めに床に就いたのですが、6月4日午前1時に下から突き上げるような感覚で大きな揺れを感じました。揺れ自体はすぐに収まりました。後で知りましたが、いわき市で震度5弱を観測する地震でした。福島第一原発20キロ圏のすぐ外にいて、大きな揺れを感じたのですが、まず心配したのは建物が崩れないかということと原発は大丈夫だっただろうかということでした。しかし、特に何も続報がなければ睡魔に襲われてしまうのは鈍感というよりは、悲しい慣れということになります。

6月4日は事務所開きとミニ講演会の初日でした。午前中に本部に向かい、運動会で良く見るテントを設営し、バーベキューで使う鉄板や網の準備を整えました。中学、高校と一応運動部にいて、運動部の学生たちは運動会でこき使われて嫌だなと思っていましたが、意外なところで体が動き、テントの立て方を覚えていました。人生、何が幸いするか分かりません。

その内に「副島隆彦の学問道場」の会員の皆さん、地元の皆さんが集まり始めました。そして、本部からほど近い検問所まで見学に出かけました。

12時から本部開きが始まりました。まずは腹ごしらえを、ということで焼き鳥、おにぎり、バーベキューの肉や野菜をお供に歓談が始まりました。

しばらく食べたり、飲んだりした後に、午後1時からミニ講演会が始まりました。副島隆彦先生が約30分ほど話し、それから、福島県の学校で理科の先生をしている、副島先生の弟子仲間が、原発や放射能について、1時間ほど、ニュースでよく耳にするキーワードを分かりやすく解説してくれました。元素記号が出てくると、中学、高校時代でちんぷんかんぷんだった理科の時間を思い出していました。

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↑講演会の様子↑

講演会の模様は、ウェブサイト「副島隆彦の学問道場」(こちらからどうぞ)で映像や文章の形でご紹介があると思います。ご期待下さい。

(つづく)
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by Hfurumura | 2011-06-07 01:43 | 福島

福島調査報告記②

昼食後、タクシーは海に向かい、請戸地区に向かいました。ここは漁港の近くに多くの民家が立っている地域だったのですが、家が根こそぎ破壊され、爆撃でも受けたのかというほどでした。あたり一面が瓦礫が多い尽くしていました。そこで一匹の犬に出会い、昼食の残りを副島先生やっていると、14:07に浜通り地方を震源とする震度6弱の地震が発生しました。中田研究員が副島先生にすぐ車に乗って退避するように大声で促し、私たちはすぐにその場を離れました。

その後、国道6号線を北上し、南相馬市(人口:約7万3000人)に入りました。この南相馬市は、2006年に原町市と相馬郡の小高(おだか)町、鹿島(かしま)町が合併して誕生した市です。原町市は伝統行事「相馬野馬追(そうまののまおい)」で有名です。この南相馬市は、20キロ圏内の避難指示地域と20キロから30キロの屋内待避地域とに分けられ、苦労しています。市長さんがYouTubeで世界中にメッセージを発信し話題になりました。私たちは小高地区を通過しましたが、ここも津波で大変な被害を受けていました。数多くの船が腹を向けて田んぼの真ん中に横たわっている、自動車が潰れて用水路に突っ込んでいるといった光景が何キロも続いているのです。途中で防護服を着た自衛隊と機動隊の捜索隊の姿も確認できました。この地域では、防護服を着ずに、タクシーで走る方が異様な姿となるようで、こちらを見る隊員たちもいました。

その後、14;34、20キロ圏内の検問に差し掛かりました。ここも警視庁の警察官が立っており、「ここから出るともう入れません」という注意を受けただけで進むことができました。約3時間、20キロ圏内を走る結果となりました。20キロ圏内を超えると人々の生活があります。コンビニやガソリンスタンドは営業していました。ただ、鮨屋やレストランの多くは営業をしていませんでした。自動車が多く走っていますが、田村市と比べると、営業している店がかなり少ない印象です。その後、南相馬市立病院の前で計測したところ、値は毎時「2.1」マイクロシーベルトでした。

(20)14:45 南相馬市立病院前 「2.1」マイクロシーベルト

私たちは原町地区を目指し、南相馬の人たちの話を聞こうということになり、JR原ノ町駅まで向かうことにしました。その途中、営業をしていた喫茶店「喫茶憩い」に入り、休憩を取ることになりました。ここでお店のご主人や地元の人たちと話をしました。副島先生が「私たちは郡山から原発の正門前まで行って、今北上してきたところです」と言うと、地元の人たちは興味を持ってくれ、色々と話をしてくれました。その内容を書きます。①今は物資の不足は感じない、大変だったのはガソリンと灯油。②国会議員や福島県の佐藤雄平知事が南相馬市まで来ているという話を聞いたことがない、③南相馬が計画非難地域に入ったのか分からない、④どこに逃げればいいのか、⑤南相馬市が用意したバスで避難する人は草津温泉に行っているそうだ、⑤自分たち(喫茶店のご主人)も地震直後に避難したが、避難所にしても親せきや知り合いの家にしても、1週間が限度だ。⑥どうしようかと思っていた、2011年3月29日に喫茶店の前のコンビニが営業を再開したので、自分たちも3月30日にまた営業を再開した。私たちは話を聞かせてくれたお礼を言って店を出てタクシーに乗っていると、お店の女性が追いかけてきて、「副島先生のことが掲載された雑誌を見せて欲しい」ということだったので、1冊あげて別れました。別れた後に原ノ町駅近くで計測した値は、毎時「3.1」マイクロシーベルトでした。

(21)15:27 JR原ノ町駅付近 「3.1」マイクロシーベルト

その後、南相馬市の北にある相馬市に向かいました。途中で原町火力発電所(はらまちかりょくはつでんしょ)を通過しました。また途中、サテライト福島という競輪の場外者券売り場施設を通ったところ、自衛隊が滞在しているらしく、トラックやテントが見られました。

私たちは相馬市(人口:約3万8000人)に入り、相馬市の松川浦(まつかわうら)地区に入りました。ここは相馬港に隣接し、潮干狩りの場所として大変人気のある場所だそうです。また、海苔の養殖も大変盛んであるということでした。ここの津波の被害の状況も惨憺たるものでしたが、自衛隊や地元の人々が必死に復旧作業を行っていました。ここでも厚さ1.5メートルはあるコンクリート製の堤防が破壊され、建物も鉄骨だけ残して立っているという状況です。漁船のための重油が入っていたタンクもひしゃげているという状況でした。そして、この漁港から数百メートル行った住宅地では言葉を失いました。目の前の状況に何も言葉が出ませんでした。この松川浦で計測した値は、毎時「2.4」マイクロシーベルトでした。

(22)15:58 相馬市松川浦 「2.4」マイクロシーベルト

その後、相馬市内を走り、相馬消防署前でも計測を行い、その値は毎時「2.6」マイクロシーベルトでした。

(23)16:37 相馬消防署前 「2.6」マイクロシーベルト

その後、私たちは30キロ圏外でありながら、放射能物質の検出量が多い、飯舘村(いいだてむら、人口:約6200人)に向かいました。相馬市から山を越えて行くのですが、道路は綺麗に舗装されています。中田研究員と私は車に少し酔いながら座っています。17:13に飯舘村佐須(さす)という地区に着きました。外は風が冷たく、晩秋のようでした。私たちが乗っているタクシーの運転手さんが道に迷って路肩に停まっていると、一台の自動車が停まってくれました。

その方は、草野地区の民生委員の方でした。そしてその方からお話を聞くことができました。飯舘村では前日の政府による「計画非難」地域に指定されたことで、住民たちが緊急に集まることになっているということでした。飯舘村の各地区で小学校などに集まり、住民集会が行われるということでした。4月14日は草野地区で集会が開かれ、4月16日にはまた別の地区で集会が開かれるということでした。この方は民生委員ということで、地震直後から、地区の老人たちの安否確認や世話を行うために自動車で走りまわっていたそうです。ですから、ガソリンの不足は本当に堪えたそうで、朝5時から並んでガソリンを手に入れるという状況だったそうです。他の物資に関しては不自由はしていないということでした。

この民生委員の男性は40年以上前、福島第一原発が建設される際に、「自分は反対だった」と私たちに語りました。その理由として、原発に関して、ある専門家から、「風の動きを考えると、福島第一原発で何かあったらこの飯舘村に放射能物質が飛んでくることになる」ということを聞いたのだそうです。これは重要な話です。40年以上前から、原発事故が起きれば飯舘村に影響が及ぶということが既に研究結果として出ていたことになります。

この民生委員の男性には孫がおり、その孫のために靴を買おうと福島市まで行ったそうです。そこで、「飯舘村から来たんだけど」と店員に行ったところ、近くにいた店員2人がぱっと離れたという話をしてくれました。テレビでは報道されませんが、インターネットではこうした風評による差別の話はセンセーショナルに書かれていますが、そうした状況があるのは事実のようです。私たちの乗っているタクシーの運転手さんは「同じ県みんなのに、なんてことをするんだ」と驚いていました。そして、「私が住む郡山でも避難してきた人たちでどこから来たか言いたがらない人たちがいるんですよ。そういう扱いを受けたんだね」という話をしてくれました。寒い中、話を聞かせてくれた民生委員の男性にお礼を言って別れた私たちは、飯舘村の役場がある伊丹沢(いたみさわ)を目指しました。この佐須地区で計測した値は、毎時「9.3」マイクロシーベルトでした。これは確かに相馬市や南相馬市での値よりも高いものでした。また、途中、飯舘村草野地区で計測したところ、毎時「7.9」マイクロシーベルトでした。

(24)17:13 飯舘村佐須地区 「9.3」マイクロシーベルト

(25)17:40 飯舘村草野地区 「7.9」マイクロシーベルト

私たちは、飯舘村役場に到着しました。役場の駐車場にはNHKの中継車も来ていました。飯舘村役場は平成6年に総工費10億円で作られた、大変立派な建物です。村役場の玄関わきには、支援物資である水の入った段ボールが山積みにされていました。ここで地元の世話役の男性に話を聞くことができました。この男性はまず、「この村には6200人もいて、牛が2000頭もいて、どこに避難するんだ」「高齢化が進み、70歳以上の年寄りが1000人もいるんだ」と教えてくれました。「ここら辺は夜がグッと寒くなって風の力が落ちてそれで放射性物質が落ちてくるし、雪が降ったから、高い値が出るんだ」という話をしてくれました。そこで皆の眼のまで測定をしてみました。その値は毎時「7.8」マイクロシーベルトでした。

(26)17:45 飯舘村役場前 「7.8」

私たちが役場の建物に入ると外国人が数名います。聞いてみると、アメリカの三大ネットワークの1つであるABCのクルーでした。20:00からアメリカに向けて生中継をするということでした。テレビで見たことがある有名な記者が中継の準備をしていました。役場の2階の会議室では村議会が開かれていました。

丁度その時、テレビでは菅総理によるメッセージが生中継されていました。しかし、役場にいる人たちでそれを気にする人は誰もいません。自分たちが運命を決められてしまう側の人たちは、それに対応するために、奔走していました。

私たちが2階にいると、先ほど、話をしてくれた男性がやって来て、近くのソファーに座りました。「疲れたよ、もう限界だ」と私たちに話しかけてくれました。そして、色々な話をしてくれました。飯舘村に住む一男性の話ですから、マスコミで流されることはないでしょう。しかし、私は、書き留めたメモを基にして、その話を再現してみたいと思います。

男性:「この村は昭和31年に二つの村が合併してできたんだ。それから50年、村づくりをやってきた。例外に何度も見舞われて、それで畜産に賭けたんだ。(それでは80年代の牛肉・オレンジの開放の時も大変だったでしょう、と私が訊ねると)そうだ。どうやって生活しようかと思ったほどだ」

男性:「日本性はダメだ。アメリカとフランスに原発事故の対応を任せて、止めてもらった方が良い。経験があるんでしょ。そして、もう福島第二原発も止めて欲しい」

男性:「(町長室を指さして)町長は今来客中だ。本当に疲れていて、思考力、判断力が落ちてしまう。もう限界なんだ。石原都知事は取り巻きがしっかりしているから良いな」

男性:「東京の人で、東京電力を使っている地域の人で、分かった、助けると言って駆けつけてきた人は誰もいない。知事も来ないしな」

男性:「地方自治体はものを言えねばダメだ。こんな地方自治体になってしまったのは、はっきり言って、自民党政治のつけだ」

男性:「日本人らしさはもうなくなってしまったんだな。俺たちは見捨てられたんだな」

この地区の世話役の男性から出てくる言葉を書きとめるだけで、私は何も言えませんでした。出発時刻が近づき、私はお礼を言って別れました。

そして、18;25、飯舘村役場を出発し、郡山を目指しました。これで、今回の調査と取材は終わりました。

ここからは、私が感じたことを書きたいと思います。

今回の大震災では、地震と津波、そして原発事故という複数の災害が発生しました。そのうち、地震と津波は天災であり、これまでの人々もそれを生き抜いてきたし、今は地震警報や津波警報もあり、ある程度の備えもできます。また余震が何度も発生していますが、震度6以上の大きな揺れであれば建物や道路が壊れることはあるが、それ以下なら何とかなるという、積極的な意味での「慣れ」が出来てきました。

それでも、やはり地震、津波の被害には言葉もありませんでした。自然の恐ろしさを噛みしめました。しかし、「のど元過ぎて熱さ忘れる」という言葉もあるように、人間は忘れやすくできているようです。しかし、爆撃後のような光景を私は忘れないでおこうと思います。

問題は原発事故の方です。事故が起きて1カ月、様々な報道がなされ、色々な意見が出されてきました。私もそれらに迷っていたと思います。しかし、本当に
「百聞は一見に如かず」という言葉の通りです。行ってみて、現実が分かるということがあります。私は、今回現実を知るために、今回は原発の正門前まで行きました。そのために副島先生に前々からお願いしていました。私が行ってみて分かったことは、「放射能は恐ろしいものであるが、過度に恐れる必要はない」ということです。そして、「福島の人たちは放射能物質がほんの少しではあるが大気に漂う中で、日常生活を送っている。東京でワーワー言うことに意味はほとんどなく、何か言うなら福島の人たちの側に立った内容を話すのが当たり前のことだ」ということです。

私たちのように福島に行き、原発の正門前まで行くことは多くの人はできないし、する必要もないことです。しかし、ただ、「怖い怖い」とか「絶対に安全だ」と闇雲に言う前に、出されるデータを使い、自分が判断することが大切だと思います。何かに頼るだけでなく、自分で材料を集めてそれを使って判断することは私もできていなかった、と反省しています。

私は26回のガイガーカウンターを使っての測定結果の数値を報告として書きました。この値をどう使うかは読んで下さる方々がお考えになることです。私は、この数値を見て、「過度に怖がる必要はない」と考えるようになっています。副島先生のように言い切りたいのですが、私は先生にも注意を受けるほどの、「臆病者」です。しかし、その私でも、「過度に怖がることはない」と考えるようになりました。自分で情報を集め、それを基に判断していけば、「過度に」という言葉も取れて行くでしょう。

「過度に怖がるのでもなく、過度に楽観するのでもなく、自分が集められるデータや材料を使って、自分の頭で判断する」ということは、今回の原発事故に対する態度だけでなく、これからの生き方の指針になると思います。この機会を使って、私もこの指針を持って考えることを始めたいと思います。

以上、大変長くなりましたが、調査・取材報告といたします。最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

(終わり)
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by Hfurumura | 2011-04-24 01:42 | 福島

福島調査報告記①

古村治彦です。

今回は、2011年4月12日に福島県で行いました調査・取材の結果をご報告いたします。

今回と次回の2回に分けて掲載します。長くて単調な記述が続きますが、お読みいただければ幸いです。

=====

今回の調査・取材に参加したのは、副島隆彦先生、SNSI研究員の中田安彦、古村治彦の3名です。

私たちは、2011年4月12日8:00に埼玉県にあるJR大宮駅に集合し、8:22に大宮駅を出発する山形新幹線つばさ号で郡山に向かう予定にしていました。新幹線のプラットフォームに上がって数分経った8:08に大きな揺れを感じまた。プラットフォーム上にある電光掲示板や電線が激しく揺れていました。これは千葉県東方沖を震源とする地震で、1分もしないうちに収まりましたが新幹線は運行を一時停止しました。

しかし、数分して運転を再開し、私たちは8:32に出発となった新幹線に無事乗車しました。車内は多くのサラリーマンが乗車していました。これらの人々は、4月12日から新幹線が東京から那須塩原を超える区間で運転を再開したため、東北地方にある取引先へ直接お見舞いに向かう、もしくは中断していた仕事をしに行くということを目的にしていたようです。

今回の調査・取材の目的の一つが、副島先生が前回の調査・取材の途中で、富岡町で保護したメス猫「富岡タマ」(本名:「魚八」さんとこのミーコ)を飼い主にお返しするというものでした。ミーコは移動用のバスケットに入れられて、大変我慢強く静かにしていましたが、新幹線での移動中は、不安と疲れからか、鳴き続けていました。

9:45にJR郡山駅に到着、改札口で飼い主とその友人が待っておられ、ミーコの帰還を大変喜ばれていました。副島先生も嬉しそうに、ミーコを何回も抱き上げ、「良かったな、元気でな、また会いに行くから」と声を掛けていました。ミーコを無事にお返しした後、少し駅前を歩きました。郡山市は福島県のほぼ中央部に位置し、県内最大の人口(約33万8000人)が住む都市です。

その後、10:10にお願いしていたタクシーに乗車し、郡山から国道288号線を東に向かい、東京電力福島第一原子力発電所に向かうことになりました。国道288号線は、地元では、「にいぱっぱ」と呼ばれています。また「都路街道」とも呼ばれています。タクシー乗車後、郡山市内で最初の放射能量の測定を、副島先生が所有するガイガーカウンターで行いました。10:15に阿武隈川の近くで計測した値は、毎時「2.6」マイクロシーベルトでした。

(1)10:15 郡山市内阿武隈川近く 「2.6」マイクロシーベルト

その後、10:31に三春町(人口:約1万8000人)で計測した値は、毎時「2.3」マイクロシーベルトでした。三春町は「三春滝桜」という立派なしだれ桜で有名な町で、日本三大桜の一つにも数えられる銘木だそうです。毎年、この時期になると桜祭りが開催され、観光客が多く訪れるのですが、今年は桜祭りも中止となり、大変静かな雰囲気だそうです。三春町で計測したところ、値は毎時「2.3」マイクロシーベルトでした。

(2)10:31 三春町 「2.3」マイクロシーベルト

タクシーは三春町を抜け、田村市(人口:約4万人)に入りました。田村市は2005年に船引町、滝根町、大越町、都路村、常葉町が合併して誕生した市です。田村市船引(ふねひき)地区(2005年に合併する前は田村郡船引町)は、民主党の玄葉光一郎衆議院議員(民主党政調会長兼国務大臣)の出身地です。やはり地元ということで、玄葉議員のポスターを多く見かけたました。また新党改革参議院議員荒井広幸(あらいひろゆき)氏も同船引地区の出身だそうです。田村市船引地区で計測した値は、毎時「2.9」マイクロシーベルトでした。

(3)10:38 田村市船引地区 「2.9」マイクロシーベルト

10:55に田村市常葉(ときわ)地区に入りました。ここも市町村合併の前は田村郡に属する町でした。地区に入ってすぐに計測した値は、毎時「2.6」マイクロシーベルトでした。

(4)10:55 田村市常葉地区 「2.6」マイクロシーベルト

11:15に今度は、田村市都路(みやこじ)地区に入りました。都路地区は合併前は田村郡都路村でした。村と聞くと、のどかな印象を持ちますが、国道288号線に沿って、民家や商店が多く立ち並んでいました。人々は日常の生活に戻っていました。地震の痕跡も瓦屋根にブルーシートが被せられている、もしくは壁にひびが入っているというものでした。都路地区に入ってすぐに計測をした値、毎時「2.8」マイクロシーベルトでした。

(5)11:15 田村市都路地区 「2.8」マイクロシーベルト

田村市都路地区で一軒の酒屋さんがコンビニの役割を果たしているお店に入りました。そこで、飲料水やお茶、そして、副島先生の前回の原発調査・取材時の様子を特集している雑誌(「アサヒ芸能」)を購入しました。また中田研究員は福島の地元紙「福島民報」を購入していました。福島には、「福島民報」と「福島民友」の2つの地元紙があります。「福島民友」は読売新聞系だということでした。20キロ圏内からほんの数キロ先では、このように、流通も回復し、日常生活が支障なく送れるような状況にあります。コンビニに立ち寄ったついでに都路地区中心部の別々の場所で2回計測したところ、それぞれ「2.2」マイクロシーベルト、「2.8」マイクロシーベルトの値を計測しました。

(6)11:21 田村市都路地区 「2.2」マイクロシーベルト

(7)11:25 田村市都路地区中心部 「2.8」マイクロシーベルト

それからほんの数分進むと、国道288号線で無人の規制線が張られ、通行できなくなっていました。ここが福島第一原発から半径20キロの地点なのです。私たちはタクシーを降り、無人の警戒線から100メートルほど先にある、有人(警察官がいる)の規制線に徒歩で近づいて行きました。2名のマスクをしてはいるが、通常の恰好をしている警察官が近づいてきました。彼らは東京から来た警視庁第4機動隊(通称鬼の4機)所属の隊員たちでした。彼らは私たちにここから先は通行できない、と告げました。副島先生がどういう法律に基づいて通行できないのかと質問すると、「政府の指示です」「菅総理の指示です」という答えでした。副島先生は週刊誌を見せながら、「法律に基づかなければ人間の行動を制限できない」と副島先生は週刊誌を見せながら、「私たちは調査・取材に行
くのです。通しなさい」と告げました。警察官たちは「責任者に相談する」と答え、約10分ほど待っていたら、「通って良い。マスクをして気をつけて行ってください」ということになりました。

都路地区の検問(規制線)は、2010年4月3日に張られ、警察官が常駐して、自動車や人の通行を遮断しているということでした。また、副島先生と私たちのように警察に通すようにと言って、実際に通っていった人はいない、ということでした。

現在、20キロ圏内には政府による「避難指示」が出ていますが、住民や取材者を強制的に立ち入らせない力を持っているものではありません。「危険があるので、どうぞ入らないでください」と警察はいいますが、それ以上のことはできません。ですから、住民が「私は圏内の住人で家財や飼っている動物が心配なので様子を見に行く」「持っていける財産を持ちだすために短時間だけ入る」などと強固に言い続ければ、警察も「それではどうぞ、気をつけて行ってください」と言うしかないのです。ですから住民の皆さんで一時的でも家に帰りたいと考えている方は20キロ圏内に入るのは可能ですから、警察にしつこく言えば通します。(2011年4月22日から警戒区域となり、入るには許可証が必要になりました)

警察官からの答えを待つ間、ガイガーカウンターで計測したところ、毎時「3.5」マイクロシーベルトの値を計測しました。警察官たちはガイガーカウンターの数値を眺め、週刊誌の記事に目をやりながら私たちの近くに立ち、話に静かなトーンで応じていました。

(8)11:39 田村市都路地区警戒線付近 「3.5」マイクロシーベルト

11:50に、私たちは警戒線を超えて、20キロ圏内の地域に入りました。見た目や匂いで20キロ圏内と圏外に違いは何もありません。時折見かける民家、農家、工事現場などに人影は全く見当たりませんでした。途中で乗り捨てられた自動車を数台見かけました。途中のトンネルでは照明がなく、真っ暗の中を進みました。また、途中に落石によって真中からポッキリと折れてしまったコンクリート製の電柱もありました。20キロ圏内では、地震の後片付けもできていないし、電気がともったままの商店もあるように住民はとりあえず、持てるだけの荷物を持って一時避難のつもりで圏内から退避したように思われます。20キロ圏内に入ってすぐに計測したところ、「3.1」マイクロシーベルトの値を計測しました。

(9)11:52 都路地区20キロ圏内入ってすぐ 「3.1」マイクロシーベルト

大熊町(人口:約1万1000人)に入ったのは11:57です。福島第一原発があるのはこの大熊町です。大熊町でもやはり人影は見当たらず、大変静まり返っていました。数軒の家は、窓やドアが開け放たれていました。物盗りの犯行なのか、住民がそうしたのかは分かりませんが、強風でカーテンがなびく様子は異様なものでした。また、大熊町に入って以降、道路の亀裂や段差が激しくなりましたが、タクシーの通行を妨げるということはありませんでした。大熊町は住民と町役場が会津若松市に避難しています。

大熊町では、国道288号線を通って入ってすぐの地点と原発から5キロ離れた地点でそれぞれ測定をしましたが、それぞれ毎時「3.4」マイクロシーベルト、毎時「17.9」マイクロシーベルトの値を計測しました。

(10)11:59 大熊町に入ってすぐ 「3.4」マイクロシーベルト

(11)12:08 大熊町5キロ圏内 「17.9」マイクロシーベルト

大熊町役場の前も通りました。大変立派な町役場の建物でした。その他にも体育館などの施設も立派で、また、全体的に立派な住宅も多く、豊かな自治体なのだろうと推察できました。大熊町役場近くで計測した値は、毎時「24.0」マイクロシーベルトでした。

(12)12:15 大熊町役場近く 「24.0」マイクロシーベルト

12:20、いよいよ東京福島福島第一原子力発電所に近づきました。周りに協力企業の社屋や倉庫などがあり、その間を抜けて行くと、林があり、そこを抜けると、左手にゲストセンターが見え、そして、原子力発電所の正門前に到着しました。途中で高速で駆け抜けるトラックや自動車とすれ違いましたが、乗車している人たちは皆、防護服を着ていました。彼らは私たちを見てぎょっとした表情を浮かべていました。

私たちはタクシーを降り、歩いて正門に近づきました。正門前の警備をしている職員が3名見え、その内の2人が小走りに近づいてきました。「近づかないでください」「離れてください」「撮影をしないでください」「お名前は」と慌てた様子で話しかけてきます。副島先生は「また来ました。私は副島隆彦です」と悠然と答えていました。この時、計測した値は、空中で毎時「127」マイクロシーベルト、芝生の上で毎時「1088」マイクロシーベルトでした。私たちは、職員たちに「ありがとうございました」と挨拶し、数分でタクシーに乗り、引き上げました。職員の人たちは無言でしたが、会釈を返してくれました。ちなみに正門前の警備の職員は2交代制だそうです。

原発から20キロ圏内では、防護服を着ているのが普通で、私たちのように着ていないのが異常なのです。ですから、私たちは大変な闖入者ということになります。

(13)12:20 福島第一原発正門前 「127」マイクロシーベルト、芝生の上「1088」マイクロシーベルト

原発に沿う形で、しばらく走りました。自分は気が小さく、引っ込み思案なのを先生にも注意されるほどですが、原発に近づいたときは、意外なほど落ち着いていました。ガイガーカウンターを持ち測定をしながらでしたのでそこまで怯えなかったのだと思います。しかし、「普通の人々は近づかないし、近づけない場所に接近した」という思いに心が昂ぶっていました。大熊町を抜ける途中、福島第一原発の5号機、6号機が良く見える場所がありました。カメラの望遠レンズで見てみると、青色の建物にそれぞれ「5」、「6」という数字が書いてありました。

そして、タクシーはやはり原発の町と呼ばれる双葉町(人口:約6800人)に入りました。道路はあり変わらず亀裂が入り、盛り上がって段差になっている場所もありました。双葉町も大熊町同様、人はおらず、静まり返っていました。信号は作動していませんが、対向車が来る可能性はほとんどないという状況でした。双葉町は住民と町役場が埼玉県さいたま市にあるさいたまスーパーアリーナに一時避難し、現在は埼玉県加須市にある旧騎西高校に移っています。大熊町から双葉町に入ったくらいの地点で計測したところ、値は毎時「33」マイクロシーベルトでした。

(14)12:42 双葉町に入ってすぐ 「33」マイクロシーベルト  

その後、双葉町の海岸へ出ました。ここは原発から約2キロの地点です。海岸は津波の影響でめちゃくちゃになっており、もちろん片づけもされていませんでした。堤防も一部が破壊され、津波の威力は想像に絶するものです。津波の引いた後は、海の底の土に水分が残っているので、黒くなっています。これは津波の被害を受けた場所はどこでも共通するものです。そして、乾いたところからそれが砂になって舞い上がります。

堤防の突端に出ると、福島第一原発の5号機、6号機をはじめ、その奥まで見えます。高性能のカメラではなく、普通のカメラの望遠レンズでもひしゃげた鉄骨の様子が見えました。ここで計測したところ、値は毎時「13」マイクロシーベルトでした。風が北から吹くので、放射能物質が少なく、値が低いと推察されます。

(15)12:45 双葉町海岸・原発から2キロ地点 「13」マイクロシーベルト

その後、タクシーで国道6号線(常磐線)を北上し、双葉町を縦断する形になりました。途中、鉄道のコンクリートの橋が崩れている場所がありました。この付近の古い民家は1階がぺしゃんこになっているものもありました。2011年3月11日の地震とその後の大きな余震でここまでの大きな被害が出ていることに驚きました。この付近でも計測してみたところ、値は毎時「6.3」マイクロシーベルトでした。

(16)13:09 双葉町鉄道橋崩落現場付近 「6.3」マイクロシーベルト

北上する途中、JR双葉駅に立ち寄りました。もちろん誰もいませんし、列車もありません。駅前のお店のガラスが割れていましたが、家の中にガラスの破片が落ちていたので、物盗りの可能性もあります。警察が規制線を張り、検問を行うまでは出入りが割と自由だったので、住民だけでなく、外部からの物盗りも入ってきたものと考えられます。駅前のタクシー会社にはタクシーだけが残されていました。駅前でも計測してみましたが、値は毎時「8.0」マイクロシーベルトでした。

(17)13:19 JR双葉駅前 「8.0」マイクロシーベルト

国道6号線を北上し、私たちは浪江町(人口:2万800人)に入りました。浪江町役場と多くの住民は現在福島県二本松市に避難しています。浪江町には請戸(うけど)という地区に漁港があり、漁業が大変盛んな町です。請戸漁港に行く途中、浪江町に入ってすぐの地点と立派な建物の浪江町役場の前で計測をして、値はそれぞれ、毎時「2.6」と「3.1」でした。途中、浪江駅前でタクシーを停車し、車内でミーコの飼い主である渡辺さんからいただいたサンドイッチで昼食を済ませました。昼食の最中に2台の自動車が近づいてきました。副島先生が話を聞こうと近づくと、スピードを上げて去って行きました。若い人たちばかりだったということで、冒険心から20キロ圏内に入ったのか、もしくは窃盗を行おうという意図だったのだろうと考えられます。浪江駅前も商店の柱は曲がり、壁は崩れ、ガラスも割れているという惨状でした。

(18)13:31 浪江町入ってすぐ 「2.6」マイクロシーベルト

(19)14:00 浪江町役場 「3.2」マイクロシーベルト

(つづく)
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by Hfurumura | 2011-04-22 01:15 | 福島