翻訳、評論の分野で活動するSNSI研究員の古村治彦のブログ
by Hfurumura
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カテゴリ:学問( 2 )

人類学内部の対立について

今回は、いつもと毛色を変えて、人類学についての文章をご紹介したいと思います。

副島隆彦の“予言者”金融セミナー第2回『大災害から復活する日本』発刊記念講演DVD

副島 隆彦 / 成甲書房



ネクスト・ルネサンス 21世紀世界の動かし方

カンナ,P. /



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昨年の話で古くなってしまいましたが、アメリカの人類学会がある公式な宣言文の中から「科学(science)」という単語を削除しました。その代わりに「一般の人々の理解を深める」という文言が入れられました。

人類学会には大きく分けて2つのグループ、派閥があります。科学として研究を追求する派と研究対象の部族や人々の生活の問題に取り組むべきとする派です。

これら2つの派閥の争いが人類学会に分裂を招いているのは確かなようです。

==========

●「人類学は科学だろうか?ある宣言が争いを激化させている(Anthropology a Science? Statement Deepens a Rift)」 

ニコラス・ウエイド(Nicolas Wade)
2010年12月9日付 ニューヨークタイムズ紙

http://www.nytimes.com/2010/12/10/science/10anthropology.html

人類学者たちは、自分たちが所属し研究している人類学の性質と未来について混乱状況に陥っている。混乱のきっかけは全米人類学学会(American Anthropological Association)の2010年年次総会において、「長期計画に関する宣言」の中から「科学」という言葉を削除したことだ。

この決定は長年にわたりくすぶっていた、2つのグループの間の争いを再燃させた。人類学の世界には、科学を基盤とした人類学の諸分野である考古学、形質人類学、文化人類学の派閥と、人種、民族、ジェンダーを研究する学者たちの派閥がある。後者の派閥の人々は自分たちを原住民の抱える問題や人権問題を解決するための主導者、活動家であると考えている。

ここ10年、人類学の世界では2つの派閥が激しく争ってきた。そのきっかけは政治的な活動を志向する派閥が、ヴェネズエラからブラジルにかけて住んでいるヤノマノ族に関する研究を攻撃したことである。この研究は、科学志向の人類学者ナポレオン・チャグノンと遺伝学者のジェイムス・ニール(2000年に死去)によって行われた。この争いが残した傷はいまだに癒えず、科学志向の人類学者たちの多くは、先月、人類学会が長期計画の宣言文を変更し、人類学を科学として発展させるのではなく、「一般の人々の理解」を深めることを選択したことを知り、狼狽した。

現在に至るまで、全米人類学学会の長期計画は、「人類学は、人類をすべての面で研究する科学」だとしてきた。先月、全米人類学学会の執行部はこの長期計画を見直し、「全米人類学協会の目的は人類に関する一般の人々の理解を促進することだ」と修正した。この長期計画には人類学に含まれる学問分野のリストが掲載され、その中には政治調査研究も含まれている。

「科学」という言葉は、「長期計画に関する宣言」から後2か所削除されている。

全米人類学学会会長のヴァージニア・ドミンゲス(イリノイ大学)は、私たちの取材に対するEメールでの返事の中で次のように書いている。「科学という言葉を外したのは理事会で、自分たちの仕事を科学の範囲内に位置づけない人類学者たちも含めて宣言文を出そうと決めたからです。もちろん科学の範囲内に位置づける人々を宣言文では含んでいます。宣言文は、理事会に素晴らしい提案があれば修正されるものです」

ドミンゲス博士は、「新しい長期計画宣言は、全米人類学学会の『目標に関する宣言』とは異なります。この「目標に関する宣言」について変更はありません」と語っている。「目標に関する宣言」では、人類学を科学であるとしている。

全米人類学学会の傘下の人類学関連諸科学協会会長(Society for Anthropological Sciences)のピーター・ペレグリンは、会員たちに送ったEメールの中で次のように書いている。「全米人類学学会内で提案されて実現した変化はアメリカの人類学を傷つけるものである。私たちの考えを明確にし、全米人類学協会の会員たちに知らせなければならない」

ウィスコンシン州のローレンス大学で教鞭を執るペレグリン博士は、私たちとのインタビューで次のように語った。「科学という言葉を削除したことで2つの派閥の間での緊張感が高まってしまい、2つの派閥の間の関係は修復不可能になってしまいました。理事会が文言を元に戻しても、もう元には戻りません。今回起きたことは、籠の中に閉じ込めていた猫を外に出したら、部屋中を走り回って家具という家具に傷をつけたようなものなのです」

ペレグリンは人類学協会で起きた変化を科学に対する攻撃だと考えている。そして、人類学において大きな影響を与えている2つの流れがあるとしている。1つの流れは、批判人類学を信奉する人類学者たち(critical anthropologists)である。彼らは、人類学を植民地主義の武器として捉え、人類学の植民地主義的な要素を取り除くことを目指している。もう1つの流れは、ポストモダンを信奉し、科学の権威を批判している(postmodernist critique of the authority of science)人類学者たちである。ペレグリンは、「こうした動きは、合理的な主張や思考を否定することを基盤としている創造説(creationism)のようなものだ」と書いている。

ドミンゲス博士は批判人類学とポストモダンを信奉している人類学者たちの考えが新しい宣言文に影響を与えたことを否定している。ドミンゲス博士は私たちの取材にEメールで回答を寄せた。その中で、科学志向の人類学者たちは、長年、科学志向ではない同僚たちの存在を憂慮し、否定的であったと語っている。ドミンゲス博士は、「ある人々を少数派に追いやったり対立したりするのは楽しくて何度でも経験したいという類のものではない」と述べている。

(終わり)

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読者からの投稿コーナー(The Opinion Pages)

●投書:「科学の定義(The Definition of Science)」(2010年12月13日掲載)

http://www.nytimes.com/2010/12/14/opinion/l14anthro.html?scp=3&sq=anthropology%20a%20science?&st=cse

編集部へ

「人類学は科学だろうか?ある宣言が争いを激化させている」(2010年12月10日付の記事)への反論

全米人類学学会の旗艦誌である『アメリカン・アンソロポロジスト』誌の編集責任者として、私は、今回の「科学」という言葉の、長期計画宣言からの削除は、人類学の世界の争いを激化させることはないし、誤解を深めることはないと考えている。

私は全米人類学学会が「科学」という言葉を削除したことを再考してくれる、と希望を持っている。それは人類学が科学の定義を拡大することに貢献してきたからだ。科学は何も実験室だけで行われるものではなく、フィールドでも行われるものだ。何回も同じ手順で行われる実験(experiments)だけではなく、同じことを繰り返すことは不可能な観察(observation)も科学研究の手法に含まれる。人類学だけが科学と言うこともなく、動物学や天文学といった幅広い学問分野も科学なのである。

双眼鏡(訳注:科学的方法の象徴)の調整は正しい知識を得るために大変重要である。それと同じくらい重要なのは、コロニアリズムの科学(人類学だけではなく)に対するインパクトを理解することによって、概念の範囲を測定することだ。そして権威に対する様々な要求によって知識は形成されていく。

概念の範囲をしっかり測定することと決めることは、科学をより科学たらしめる。

問題は、「派閥間の争い」ではなく、聞き間違いとそれによる誤解である。私たちは敵対心が渦巻く時代に生きている。その中で、私たち人類学者は、職業を通じて身に着けた「注意深く人の話を聞く」というスキルをお互いに理解のためにより効果的に使わなければならない。そうすることで、人類に関する科学の発展と一般の人々の理解を深めるという二つのことが可能となるのだ。

トム・ボエルストーフ
カリフォルニア州アーヴァイン
2010年12月10日

投稿者はカリフォルニア大学アーヴァイン校の人類学教授である。

(終わり)
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by Hfurumura | 2011-09-09 17:35 | 学問

アメリカの大学院時代に書いた書評論文を掲載します

日本再占領 ―「消えた統治能力」と「第三の敗戦」―

中田 安彦 / 成甲書房



ネクスト・ルネサンス 21世紀世界の動かし方

カンナ,P. /



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本日は少し趣向を変えまして、私が留学していた南カリフォルニア大学大学院の中国政治の授業で書いた書評論文を掲載します。この授業では、参加する学生全員が指定された論文や本を読むのですが、数人の学生たちが議論の叩き台となる書評論文を書いて、全員の前で10分程度発表するという形式がとられました。私は文化大革命(Cultural Revolution)がテーマの授業で書評論文と発表が割り当てられました。以下が提出した書評論文です。分量はだいたい5ページ程度です。今から読めば稚拙な表現も多く、恥ずかしい限りなのですが、「この程度でも良いんだ」「難しく書く必要なんてないのだ」ということをお知らせできたら幸いです。

==========

POSC 637 02/03/2003
Professor Stanley Rosen Haruhiko Furumura

Background to the Cultural Revolution

What was the Cultural Revolution? What had happened to China as a result of the Cultural Revolution? Many scholars have challenged these questions. In the studies of the Cultural Revolution, there are two approaches. Nina P. Halpen (1993) points out that there are the “two-line struggle” model and the “Mao-in-Command” model to analyze the Cultural Revolution. Harry Harding (1984) indicates that there are the ‘Mao-in-command models in the literature on the Cultural Revolution’ (pp.15). In the following sections, I will summarize the assigned articles on the Cultural Revolution and try to evaluate and elaborate them.

In Mao Tsetung’s Last Great Battle, Raymond Lotta writes on the events in the Cultural Revolution. Although he titles ‘Mao Tsetung’s Last Great Battle,’ Lotta emphasizes on the struggles between two lines, the Rightists and the Leftists rather than the role of Mao. Hence, this article can be classified as the two-line struggle model approach. Lotta depicts the Rightists as stability-, and modernization-orientation group on the one hand. On the other hand, the Leftist was described as a class struggle-, and anti-modernization-orientated group. Lotta points out that ‘Mao, after all, had been the protector of the Four’ (pp.43) and Chou Enlai was the central figure in the Right. These two groups held the balance. In most of all cases in the Cultural Revolution, both camps had the severe conflicts. The settlements were determined by Mao. Although Lotta depicts Mao as ‘the protector of the Four,’ Mao, in some cases, supported the Rightists. In my view, Mao tried to keep the balance between the two lines carefully. He seemed to manipulate the both camps to maintain his authority and power. In other words, it can be said that two groups were forced to fight each other.

In Introduction: The Cultural Revolution in Historical Perspective, Stuart R. Schram looks at the Cultural Revolution and the history of the Chinese Revolution broadly based on Mao’s saying and doing. This article is classified as the Mao-in-Command model approach. He claims that ‘Mao Tse-tung chose to emphasize rather the unity and continuity of the Chinese Revolution as a whole’ (pp.2). In addition, the Cultural Revolution was located in these unity and continuity. Since the Western Impact, China had faced the dilemma of modernization (Westernization) and nationalism (tradition). Schram defines the Cultural Revolution as ‘a struggle for power’ and ‘a confrontation as to which road the Chinese revolution should follow’ (pp.85). And, in his view, ‘China today (1973) is groping toward a synthesis between certain elements of Leninism and the demands of a national reality which will have its center of gravity in the countryside for a long time to come’ (pp.99). To Schram, the Cultural Revolution is the trial to overcome the dichotomy of modernization and nationalism as same as the other revolutions led by Mao.

Resolution on Certain Questions in the History of Our Party Since the Founding of the People’s Republic of China is the official record of the Chinese Communist Party adopted by the Central Committee of the Communist Party of China in 1981. In this resolution, the Chinese Communist Party defends the accomplishment of Mao and claims that Mao alone was not responsible for the Cultural Revolution and his accomplishments could overtook his mistakes. The Party insists that, mainly, the Leftists, such as Lin Biao and the Gang of Four were responsible for the disaster of the Cultural Revolution. Moreover, the CCP points out that ‘there are complex social and historical causes underlying’ the Cultural Revolution (pp.44). There were the lack of experience on socialist construction on a national scale within the Party and overemphasis of class struggle, and the growing Mao Zedong’s prestige. In general, this resolution emphasizes the accomplishments of Mao and tries to avoid the criticism for Mao. Hence, this resolution is categorized as Mao-in-Command model approach.

In Mao Zedong and the Cultural Revolution, Wang Xizhe deals with the Cultural Revolution. Wang sets the questions on the role of Mao in the Cultural Revolution. Therefore, this article is classified as the Mao-in-Command model approach. He strongly criticizes Mao as the dictator like Stalin who sought individual worship, and the utopian, agrarian socialism. Wang points out that the Cultural Revolution was rooted from the Great Leap Forward. After the failure of the Great Leap Forward campaign, Liu Shaoqi and Deng Xiaoping tried to lead China to the economic construction (Modernization) and to the collective leadership (denial of the individual cult). To Mao, their policies were the threats to his power and his vision of utopian agrarian socialism. Wang also criticizes that Mao destroyed the democratic reforms within the Party. At the same time, he is skeptical of the reformers within the Party who returned to their positions after the Cultural Revolution. Because, Wang thinks, they are the bureaucrats who seek self-interests; therefore they could not meet the people’s demand. Wang refers to his young friends’ thought, ‘Deng Xiaoping, Mao Zedong, and the “Gang of Four” are not much different and are all formal representatives of the bureaucratic system’ (pp.253).

In the Private Life of Chairman Mao, Li Zhisui depicts the life in Mao’s court vividly. He not only describes the private life of Mao, but what other comrades and cadres in CCP did and said. Though he describes the broad events and actors in the history of People’s Republic of China, this book is written with the Mao-in-Command model approach. In Li’s view, the Cultural Revolution was ‘naked high-level power struggle that had little to do with them’ (pp.578) and Mao began the movement. Li was forced to be involved in this power struggle by Mao, but he could escape from it and survive. His standpoint of view is on the ‘rightist’-oriented, or stability-favored. But, at the same time, he indirectly criticizes Chou Enlai, the guardian for the rightists, because of his extreme loyalty toward Mao. In this book, Li writes Mao as the great strategist and the poorest politicians. Mao told Li, ‘I love great upheavals (Wo xihuan tianxia daluan)’ (pp.463). After the establishment of the People’s Republic, Mao had made the People’s Republic be in the series of struggles and the chaos. Mao also had pursued the individual worship and succeeded in acquiring it during the Cultural Revolution. But, ironically, his absolute power accelerated Mao’s solitude and suspicion about his loyal comrades.

In the five assigned articles, one article is the two-struggle approach model and four are the Mao-in-Command approach model. In the four articles, two articles criticize Mao and two do not criticize Mao strongly. In two models, which is more effective to analyze the Cultural Revolution? I support the Mao-in-Command approach model. There are four reasons. First, all authors of assigned articles write on that Mao began the Cultural Revolution and Mao played the significant role in the Cultural Revolution. Second, the two lines seemed to be at the Mao’s mercy. Mao manipulated the two camps, and remained the tension and balance between two. In the Cultural Revolution, no one except Mao could win the struggles. Third, during the Cultural Revolution, as the Resolution of CPC history shows, his prestige culminated, and no one could criticize and purge him. Fourth, in the two-line struggle model approach, the role of the comrades tend to be overestimated, on the other hand, the role of Mao tend to be underestimated. For these reasons, I would like to say that two models of elite politics are effective to analyze the Cultural Revolution, and the Mao-in-Command model approach is more effective than the two-line struggle model approach.

What was the origin of the Cultural Revolution? Why did the Cultural Revolution occur? Some authors claim that Mao wanted to eliminate his ‘enemies’ to maintain his power. Others indicate that the Cultural Revolution was based on the history of the Chinese Communist Party and modern history of China. The Chinese people had to overcome the dilemma of modernization and nationalism. Mao inevitably faced this kind of dilemma and tried to synthesize the western knowledge and China’s reality and tradition. This kind of dichotomy affected Mao’s behavior. In the early stage of economic construction, Mao intended to use western knowledge, but he realized that rational aspects of western knowledge would destroy his ideal. Rationalization would lead the rational bureaucratic administration, the proletariat orientation, and urban industrialization. These were opposed to Mao’ view of the utopian, agrarian socialism based on the countryside peasants. In my opinion, the Cultural Revolution was the objection from the China’s reality and tradition to Modernization-orientation and Mao was the incarnation of this objection, because Mao was not only the leader of the Communist Party of China, but also ‘an emperor’ was ‘due to his class nature as a peasant leader’ (Xizhe, pp.236).

(終わり)
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by Hfurumura | 2011-07-22 00:02 | 学問