翻訳、評論の分野で活動するSNSI研究員の古村治彦のブログ
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ハンチントンの業績について:フクヤマによる解説

古村治彦です。このブログを長い間、放置してしまいました。誠に申し訳ございません。

ウェブサイト「副島隆彦の論文教室」の管理、翻訳の仕事などで忙しく、こちらに掲載するべきものが手つかずでした。

今回は、「フォーリン・ポリシー」誌に掲載されました、フランシス・フクヤマによる、サミュエル・ハンチントンの業績の解説をご紹介いたします。ハンチントンは2008年に他界しましたが、今でも、政治学における巨人の一人です。彼の業績は多岐にわたり、その理解は難しいのですが、フクヤマはいつものようにうまくまとめています。

ハンチントンの研究の柱は近代化批判、民主化、文化や宗教の政治への影響です。彼の業績を知ることで、昨年からのチュニジア、エジプトの反政府運動と権威主義的政権の崩壊についても考える手がかりになると思います。

それでは拙訳をお読みください。

==========

サミュエル・ハンチントンの遺産:ハンチントンの政治研究やその他の分野での業績は今日でも重要である。それは何故か。

2011年1月5日
フランシス・フクヤマ筆
フォーリン・ポリシー誌

サミュエル・ハンチントン(Samuel Huntington)の政治研究で最も重要なのは、1968年に発表した『変革期社会の政治秩序』(Political Order in Changing Societies)だ。この著作は、政治発展論の大きな理論を構築しようという最後の試みであった。この著作は、1950年代から1960年代初めにかけて一世を風靡した学問上の理論において、その重要性を持ち、理論の発展に貢献したと言えるだろう。1950年代、「近代化論(modernization theory)」が隆盛を極めた。この理論は、社会変革のための経験に基づいた、様々な学問を統合した理論を構築しようというものである。そして、この理論構築の試みは、アメリカの学問の歴史で最も野心的な試みであった。近代化論の源流は19世紀のヨーロッパで活躍した、ヘンリー・メイン(Henry Maine)、エミール・デュルケーム(Emile Durkheim)、カール・マルクス(Karl Marx)、フェルディナンド・テンニース(Ferdinand Tonnies)、マックス・ウェーバー(Max Weber)にまで遡ることができる。イギリスやアメリカの近代化の経験を基にしながら、これらの学者たちは、社会発展に関する一般法則を発見しようと努力した。

ヨーロッパの社会理論は二つの世界大戦によって完全にその正当性を失った。ヨーロッパの社会理論が生み出した考え方は、アメリカに移植され、第二次世界大戦後、アメリカの学者たちによって洗練されていった。彼らは、ハーバード大学の比較政治部、マサチューセッツ工科大学の国際研究センター、社会科学研究委員会の比較政治分科会に所属し、活動していた。 ウェーバーの学問的な弟子であるタルコット・パーソンズ(Talcot Parsons)が指導していた社会関係学部は、経済学、社会学、政治学、人類学といった社会科学の各分野を統合することを目指していた。

1940年代末から1960年代初めにかけて、ヨーロッパ各国が所有していた植民地はどんどん独立し、植民地帝国は崩壊していった。そして、世界には、第三世界に所属する発展途上国(the third or developing world)が出現した。こうした新しく独立を果たした国々は、近代化の意欲を備え、旧宗主国に追いつこうとしていた。エドワード・シャイルズ(Edward Shils)、ダニエル・ラーナー(Daniel Lerner)、ルシアン・パイ(Lucian Pye)、ガブリエル・アーモンド(Gabriel Almond)、デイビッド・アプター( David Apter)、ウォルト・ホイットマン・ロストウ(Walter Whitman Rostow)といった学者たちは、新たに独立を果たした国々が多く出現したこの状態を社会理論を試すための実験室だと考えていた。また同時に彼ら学者たちは、自分たちが発展途上国の生活水準の向上や政治システムの民主化の手助けができる絶好の機会であると捉えていた。

彼らが主張したのは、アメリカナイズされた近代化論であるとするならば、その中身は、楽観的で、全ての良いことが一緒に起こるというものだった。経済成長、社会的動員、政治システム、文化的価値は一気に改善されるというものだった。ウェーバーが主張した脱魔術化(disenchantment)、資本主義の鉄の檻、デュルケームのアノミー(anomie)といったコンセプトに含まれる悲劇的な側面は全く考慮されなかった。社会の変革の様々に異なる面はつながっている。

『変革期社会の政治秩序』はこうした楽観的な前提に挑戦するものとして出版された。第一に、ハンチントンは政治的不安定さは政治発展と同じくらい起こりやすいものであると主張した。新しく独立した国々では社会的、政治的無秩序が増大していったことは経験上、明らかなことであった。第二に、ハンチントンは、近代化のプラスの面はその意図とは違う結果をもたらすことがある、と主張している。特に、社会的動員が政治機構の発展よりもその速度が速くなると、国民の間に不満が巻き起こる。彼らは民主的な政治体制によって政治に参加できると思っていたのに、それが不可能だということに気づき、それが不満を巻き起こす
ことになるのだ。

『変革期社会の政治秩序』の中で、ハンチントンは、1968年の時点で、元植民地の新しく独立した国々のほとんどで、政治発展が起きていないことを指摘している。世界各国で、クーデター、内戦、反乱、政治的不安定が蔓延していた。ハンチントンは、社会的動員のペースが、政治機構の持つ人々を政治に参加させる能力を超えてしまったら、衛兵主義(praetorianism)、政治的破壊、政治的衰退が起こると主張している。簡単に言うと、近代化によって民主的な政治システムが導入されても、それがうまく機能しなければ、人々の不満をかき立て、結局、そのシステムが不安定になり、崩壊してしまうということなのだ。

『変革期社会の政治秩序』は、近代化論を最終的に否定し、その有効性を否定した著作であったと言える。この著作は、近代化論に対する挟み撃ち攻撃の一方の攻撃者であった。もう一方の攻撃者は左翼からの批判(訳者註:従属論や世界システム論)であった。彼らは、「近代化論者たちは、ヨーロッパや北米の社会発展モデルが世界共通のもので、人類はこれを追いかけるはずだ、という欧米中心的な考えを後生大事にしている」と批判した。アメリカの社会科学は、近代化論の失敗により、全てをつなぐ大きな、統一理論を失い、現在まで続く方法論の「バルカン半島化(Balkanization)」状態に陥ってしまった。

ハンチントンは、現実政治を長年観察し、それを基にして、「政治的秩序自体は大変に素晴らしいものであるが、近代化の過程で政治的秩序が自然発生的に生まれるわけではない」という実際的な主張を行った。彼は続けて、「現実はそんなものではない。政治的秩序がなければ、経済的発展も社会的発展も成功しない」と主張した。近代化は、政治秩序や経済的な成功を収めてから民主化するという順序立てで行うべきだ。民主政治体制が確立していない段階での、早すぎる選挙のような政治参加の増加は壊れやすい政治システムを不安定にするばかりだ。ハンチントンの発展についての戦略は、「権威主義的移行(authoritarian transition)」と呼ばれるものだ。それは次の通りとなる。まずは、近代化された独裁政治によって、政治的秩序、法の支配、経済的成功と社会的成功を導くための条件を整える。このような条件が整えば、近代化のもう一方の要素である民主政治体制と人々の政治参加が実現する。ハンチントンの教え子であるファリード・ザカーリアは、2003年に『自由の将来』という本を書いた。これは、ハンチントンの主張を現代に適応するように改良したものだ。

このハンチントンの主張は、今でも取り上げる価値のあるものだ。アメリカはアフガニスタンとイラクで国家建設事業を行ったが、無残に失敗した。多くの人々は発展の順番をきちんと踏んでいくべきだと言ってきた。「きちんとした国家建設を行ってから民主化し、政治参加を拡大させよ」と言ってきた。

『変革期社会の政治秩序』はハンチントンの初期の業績の一つである。そして、彼はこの著作で政治学者としての名声を確立した。その後も彼は、比較政治学の分野で多くの業績を残した。民主的移行(democratic transition)に関する著作は、冷戦(Cold War)終結直後の時期に大変な評判を呼んだ。民主化に関する著作発表に至るまでの過程は次の通りである。1984年に、ハンチントンが学会誌「ポリティカル・サイエンス・クォータリー」誌に「これからより多くの国々が民主化するか?」を発表した。ハンチントンは、1970年代から1980年代にかけてのスペイン、ポルトガル、南米諸国の民主的移行について調査、研究を行った。そして、ハンチントンは、「これからしばらく、構造的な、もしくは国際的な条件が大きく変わらない限り、世界中で権威主義からの移行はそこまで起こらないだろう」という結論を出した。この論文が書かれたのは、ベルリンの壁崩壊が起きる僅か5年前であった。ハンチントンは共産主義の崩壊後、考えを変え、『第三の波』(The Third Wave)という著作を発表した。この第三の波とは、ハンチントンが1970年代から1989年の時期を一つの時期としてまとめて呼んでい
るものだ。

『第三の波』は、民主化について書かれた著作である。しかし、比較政治の分野で注目されてきた、それまでの民主化についての業績とは大きく異なる種類の研究であった。民主化については、シュミッター・オドネル・ホワイトヘッドの研究に代表される「アクター」の研究と、セイモア・リプセットやシュボウスキーに代表される民主的な安定の構造的な条件についての研究の2つの流れがあった。ハンチントンは、「民主化の第三の波はキリスト教国で起きており、20世紀末の民主化のパターンは宗教的な要素が大きく影響している」と主張した。カトリックの国々は、プロテスタントの国々で起きた民主化の第一の波に追いついてきたと言える。それは、資本主義革命がプロテスタントの国々で起こり、その後カトリックの国々に波及していったのと同じだ。

しかし、民主化の第三の波は、決して様々な文化を超えて起きている近代化の過程のことではない。近代化は文化の違いなどは関係なく、全ての社会で起こることだ。しかし、近代化は、欧米のキリスト教文化から生まれた文化的価値観から生まれた。1970年代前半からの民主政治体制の拡散は、文化を超えた、人類共通にアピールがあったから広がったのではなく、アメリカやキリスト教国の力と権威に多くの国々の人々が憧れたからなのである。

『第三の波』が出版された当時ははっきりしなかったが、民主化の文化面に関する主張は、その後、『文明の衝突』(The Clash of Civilizations)と『分断されるアメリカ』(Who Are We?)、更にはローレンス・ハリソンとの共編著『文化こそが重要だ』(Culture Matters)でも繰り返し議論されてきた。ハンチントンは、『変革期社会の政治秩序』に代表されるように、近代化論を否定してきた。彼は、国内政治の発展と国際関係における文化的な価値と宗教の優位性の存在を強く信じていた。文化的な優位性というハンチントンの主張とは反対に、グローバライゼーションは、中身のない薄ぺらい世界市民主義者である「ダボス人(Davos men)」を生み出すような底が浅い動きである。そして、グローバライゼーションが深化しても世界平和と繁栄が訪れるとは保証できない。そして、アメリカは世界的な民主化に向けての動きの前衛であり、その象徴ではない。アメリカの民主政治が成功しているのは、「アングロ・プロテスタント」社会という起源に基づいているからだ。ハンチントンは亡くなる直前まで、宗教が世界政治に与える影響についての研究に注力していた。

ハンチントンは、「近代民主政治体制は歴史的に見て西洋のキリスト教から生まれた」と主張しているがこれは正しい。しかし、これは何も斬新な考えではない。トクビル(Tocqueville)、ヘーゲル(Hegel)、ニーチェ(Nietzsche)のような多くの思想家たちは、「西洋の民主国はキリスト教の原理である普遍主義(universalism)の世俗化の結果である」という観察を行っている。しかし、民主政治体制が特別な歴史状況から生まれたと言って、世界の非西洋の国々で民主政治体制を確立できない、民主政治体制を世界中で実現できないということはない。民主政治体制はある程度世界に広まっているが、それは、民主政治体制が、支配者たちに対して国民への説明責任(accountability)を果たさせる効率的な方法であるからだ。決して文化的な優位性があるからだけではない。中国が民主国家となる場合、それは、中国国民がアメリカの民主政治体制を賞賛し、それを真似たいと望むから、民主国家になるのではないだろう。それは、中国が抱える政治的腐敗、環境汚染、社会的な不正義の蔓延といった諸問題を、指導者たちが説明責任を果たさない非民主体制では解決できないと判断したからであろう。

『分裂するアメリカ』において、ハンチントンは、「アメリカのアイデンティティは、アメリカ合衆国憲法(the Constitution)とアメリカの信条(American creed)に対する忠誠心によって規定されるのではない。それは、『アングロ・プロテスタント文化』と私が呼ぶ宗教的なルーツを持つものである」とはっきりと主張した。『分裂するアメリカ』の中でハンチントンは、「アングロ・サクソン・プロテスタントの文化を持ったイギリス人ではなく、スペイン、ポルトガル、フランスのカトリックたちによってアメリカが建国されていたら、現在のような合衆国ではなく、メキシコ、ブラジル、カナダのケベック州のようになっていただろう」と書いている。これは歴史的に正しい考察と言えるだろうが、一つの疑問も生じる。それは、この歴史的事実は、そうではなかったという仮定の場合と比べて、現在のアメリカ政治に大きな違いをもたらしているのだろうか?というものだ。ハンチントンは『分裂するアメリカ』で、一章を割いて、有名なプロテスタントの労働倫理を取り上げている。このプロテスタントの労働倫理はアメリカの文化の一部であり、アメリカのアイデンティティの柱となっている。しかし、それでは、現在のアメリカにおいて一体誰が勤勉に働いているかと言われると、古くからアメリカに存在するボストン・ブラーミン(Boston Brahmin)と呼ばれるワスプ(WASP)でもなく、アパラチア山脈からテキサス、アメリカ南西部に広く居住しているスコッチ・アイリッシュ(Scotch-Irish)と呼ばれる人々でもない。ボストン・ブラーミンは、自身の信託基金からの支払いによって生活している。スコッチ・アイリッシュは、アメリカの人種・民族別の統計では、一人当たりの収入が最低のグループに入っている。労働を尊ぶというアメリカ文化の建前は、ロシアから来たタクシードライバー、韓国出身の商店主、メキシコ出身の日雇い労働者たちが担っていると言える。労働を尊ぶということは世界中にアピールし、世界中で受け入れられている。

ハンチントンの主張は常に強力で、ハンチントンが持つ大変な学識と知識が溢れ、説得力を持つものだった。もしハンチントンの主張に合意できない部分があっても、彼の主張に真剣に耳を傾け、真面目に考え込んでばかりいた。ハンチントンの主張は、アメリカ政治、防衛政策、民主的移行、アメリカにおけるアイデンティティについてと幅広いものであり、議論のための材料(言葉と組み立て)となるものだった。彼は研究者として輝かしい業績を残したが、教師としても素晴らしい業績を残した。彼の教え子たちは政治学の全ての分野で革新をもたらした。彼は、初期の著作から晩年の著作まで、常に厳しい批評家であったが、それは「重要で、しかも根本的なことを言っておかねばならない」という信念があったからだ。これからしばらくはハンチントンのような学者に出会うことはないと確信を持って言える。

※この論文は、2008年の「アメリカン・インタレスト」誌の記事と、『変革期社会の政治秩序』の2006年版の前書きを基にしたものである。

(終わり)
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by Hfurumura | 2011-02-13 15:28