翻訳、評論の分野で活動するSNSI研究員の古村治彦のブログ
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フランシス・フクヤマ著『政治の起源』を宣伝します

本日は、フランシス・フクヤマ著『政治の起源』(会田弘継訳、講談社、2013年)をご紹介いたします。本書は、『歴史の終わり』で有名になったフランシス・フクヤマの畢生の大事業である政治秩序の起源から発達を探った研究成果です。

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私は、今回、第5章から第14章の下訳を担当しました。下訳というのは翻訳の世界では良くあるものなのですが、翻訳者の為に、事前に翻訳をしておきまして時間の節約を行うというものです。今回、下訳とは言え、フクヤマの新刊の翻訳に関わることができたことは大変に光栄なことであります。

皆様には是非、手に取ってお読みいただきたいと存じます。どうぞよろしくお願い申し上げます。

今回は、欧米の新聞などに掲載されました書評を皆様にご紹介いたします。参考にしていただけましたら幸いです。

※ウェブサイト「副島隆彦の論文教室」に掲載した宣伝文へは、こちらからどうぞ。



===========

①エコノミスト誌 2011年5月31日

http://www.economist.com/node/18483257

「歴史に関する諸理論」

11世紀にカトリックは聖職者に対して禁欲を強制したが、これが他の地域に先駆けてヨーロッパに法の支配を生み出した。その理由は何であろうか?その答えは、フランシス・フクヤマの刺激的な新刊の中にある。禁欲主義はローマ法王グレゴリー七世によって制度化された重要な改革の一つであった。禁欲主義によって、教会法は発達し、王と言えど協会法には従わねばならないという考えが生み出されたのだ。グレゴリー七世は、神聖ローマ皇帝ヘンリー四世を屈服させたことで名前が残っている。カノッサにおいてヨーロッパで最強の人物ヘンリー四世を自分の前で跪かせて懺悔させたのだ。

禁欲主義は、カトリック教会名部の腐敗とタダ乗りに対する戦いにおいて重要であった。この2つは世襲では必ず起こるものであった。禁欲主義改革はカトリック教会が「近代的で、階層的、官僚的で法に支配された機関」と呼ぶものへと進化するための道徳的進歩をもたらした。この「近代的で、階層的、官僚的で法に支配された機関」は、精神面での権威を確立した。これが世俗国家の確立のための土台となるルールを生み出すことになった。

サミュエル・ハンチントンは40年以上前に政治秩序に関する古典的名作を書いた。フクヤマはハンチントンの生徒だった。フクヤマは、政治秩序起源の研究を小規模の狩猟グループから部族への変化の研究から始めた。それがやがて「リバイアサンの登場」、つまり強制力を持つ国家へと変化していった。農業を基礎とする社会の複雑さが増す中で国家は登場した。更には、規模が拡大し続けていった戦争を遂行するために組織の面の必要性からも国家は生まれたのだ。

フクヤマの知識の豊富さには目を見張るものがある。加えて、彼は中国、インド、イスラム世界、ヨーロッパ各国を旅し、良い政治秩序の主要な構成要素を探し求め、それぞれの地域でどのようにして、そしてどうして政治秩序が生まれ、消えていったかを調査した。
フクヤマは、政治秩序の重要な3つの要素として、強力な国家、社会全体に対する法の支配、支配者の行動を制限する説明責任を挙げている。

フクヤマは史上初の近代国家は、紀元前221年に成立した中国の秦であると確信している。秦が生み出した多くの管理メカニズムはそれから500年間を通じて発達した。中国全土が小国に分立し、それぞれが相争いながらも合従連衡をするという東周時代まで続いた。このような管理メカニズムには、徴兵された軍隊とそれを率いる実力主義で昇進した(貴族中心ではない)指揮官、洗練された徴税システム、そして家族のつながりではなく才能を重視して採用される官僚たちが行政を司るといったことが含まれていた。秦は更に改革を勧め、全体主義に近い、その前身とも言うべき独裁政治制度を確立しようとして、社会の全ての部門に非情な変革を強制した。

秦の急進主義は結局のところ、秦の滅亡を誘発し、その後、漢王朝が取って代わった。韓王朝は秦よりも長く続いた。漢は貴族エリートたちと妥協し、復活した儒教の正当性を認めた。漢は400年以上続いた。しかし、フクヤマが「悪帝問題」と呼ぶ問題と人間の思考傾向そのものによって滅んだ。富、力、地位を与える基準に親族関係を据えたことで漢は滅んだのである。フクヤマは次のよう書いている。「中央集権的な国家の強さと家族主義のグループの強さとの間には負の相関関係がある。部族主義は、近代国家が生み出された後でも、政治組織の決まった形として存続した」

本書の大部分のページで描かれているのは、強力な統一国家を目指す世界各地の支配者たちの間の争い(軍事的な支配がこの当時の支配者たちの目的であった。それは技術の発達よりも征服ことが豊かになる方法であったからだ)と、支配者たちと親族集団との間の争いのことである。親族集団は支配者たちが目指す統一国家を崩壊させる力を持っていた。中国の歴代皇帝たちは、宦官を高い地位に就けることを好んだ。8世紀のアッバース朝からエジプトのマムルーク朝とオスマントルコまで、イスラムの歴代支配者たちは身内優先の贔屓と部族間の争いを減らすために軍事奴隷制度を確立した。

マムルークは一代限りの貴族で、スルタンにだけ忠誠を誓った。ジャニサリーはオスマントルコ帝国の軍事奴隷の中のエリート部隊であったが、結婚は認められなかった。しかし、2つの制度とも空洞化していった。それはマムルークもジャニサリーも利益団体に変質し、彼らがそれを守ることを目的にして創設されたはずの中央集権化した国家を滅亡させるだけの力を蓄える結果となった。縁故主義が再び姿を現したのである。

フクヤマは、そこまでの絶対王制ではなかった一七世紀のフランスと内戦と1688年に名誉革命が起きたイギリスとの間で興味深い比較研究を行った。イギリスは世界で最初の望ましい政治秩序の構成要素が結合した場所である。デンマークがそれに続いた。政治秩序の構成要素とは、強力な国家、法の支配、そして説明責任の三つである。フランスが抱えていた問題は、王が貴族たちの法的特権に挑戦する自信を十分に持っていなかったことであった。しかし、王も貴族も農民たちと勃興しつつあった商人たちに対する法の支配の適用は拒絶する点で一致していた。農民も商人も徴税を通じて国王が戦争に必要としていた資金を提供していた。その当時のイギリスは民主政治体制と言えるものではなかったが、慣習法の発達、立憲君主制のための政治的条件の確立、経済発展によって社会全体で説明責任が確立されていた。

この第一巻目はフランス革命までを取り上げたものだ。第二巻目はそれから現在までを取り上げるもので執筆中だそうだ。この一巻目の内容は、私たちの近代国家と近代国家の成り立ちの理解にとって重要なものを提供してくれる。例えば、中国には中央集権化した賢明な官僚たちが存在するが、法の支配はまだ弱く、説明責任という考え方もない。フクヤマは、毛沢東という存在が、中国は未だに「悪帝」問題から免れられないでいることを示していると主張している。一方、インドの国家は弱体であるが、中国に比べて説明責任は確立され、法律も整備されている。

フクヤマはまたわたしたちにこの春に起きたアラブの春が政治秩序に関する、彼の3つの試験に合格しているかどうかの尺度を与えてくれる。テストの成績は良くはなかったが、落第というものではなかった。フクヤマは今でも私たちに俯瞰図を与えてくれる人物である。彼は私たちに「歴史の終わり」という大きな考えを提示した。しかし、彼は同時に細かい点にも目配りをしている。政治理論の本というととかく難しくて読み進めるのも大変だが、この本はそうではない。

(終わり)

②ガーディアン紙 2011年5月12日

http://www.theguardian.com/books/2011/may/12/origins-political-order-francis-fukuyama-review

「書評:フランシス・フクヤマ著『政治の起源』」

デイヴィッド・ランシマン(David Runciman)筆

秩序だった、活発な活動を行う社会を形作るのは要素とは何か?フクヤマはこの問いに答えを持っているのか?

フランシス・フクヤマはこれからも常に『歴史の終わり』の著者として知られていくだろう。『歴史の終わり』という本を書いたことで、フクヤマには政治的な楽観主義者という評判が付いて回る。「フクヤマは、歴史がその辿るべきコースを辿っていけば全てが民主政体にたどり着くと確信しているのだ」というのである。実際のところ、フクヤマは皆さんが考えているよりもずっと悲観的な思想家である。常に何か悪い方向に行くのではないかと考えている。『歴史の終わり』は1992年に出版された。綺麗な装丁の本ではあったが、1989年に出された「歴史の終わり?」論文よりもだいぶ中身が暗いものになっていた。『歴史の終わり』は、フクヤマの師の一人で、シカゴ大学の哲学教授で保守派のアラン・ブルームの影響を色濃く反映していた。ブルームは、アメリカ社会が知的な相対主義とポップカルチャーの海に沈みつつあるとかなえた。そして、フクヤマは、1989年以降の民主政体の勝利もまたそれらによって脅かされると考えた。イデオロギー上の激しい戦いがなくなったことで、人々にとって政治は関心事ではなくなるだろうというのであった

フクヤマの新刊は彼のもう一人の師である、ハーヴァード大学の保守的な政治学者であったサミュエル・ハンチントンの影響を強く受けている。ハンチントンは『文明の衝突』によって世界的に知られている。しかし、彼の主要な関心は政治秩序にあった。政治秩序はどのように構築され、どのように崩壊するのかということに彼は関心を持った。ハンチントンは、より良い秩序を持つ社会に至る道筋には2つの危険なものが存在すると考えていた。より良い秩序に到達できない理由は、社会が血なまぐさい闘争と内戦が起きる条件を超越できないことと、ある型に固執して、新たな脅威や挑戦に対処できないことである。フクヤマはこの枠組みを民主的な秩序に関する問題に適用している。いくつかの社会では民主的で安定した秩序に到達できるのに、貴族政に留まる社会があるのはどうしてだろうか?そして、民主政治体制は直面する新たな脅威や挑戦に対処できるのであろうか?

最初の質問に答えるために、フクヤマは人間社会の起源にまで遡る。これを人類以前の歴史と呼ぶのはやり過ぎだと思われる。最初の数ページは猿のことが書かれ、それから初期人類の物語が書かれている。人類は常に緊密な関係を持つグループに組織化されている。ルソー流のパラダイスなど存在しなかった。精神的に自由な個人が原始的な森の中で自由に暮らしているなどと言うことはなかった。問題は最初の人類社会が人々の緊密過ぎる関係の上に成り立っていたということである。これらは基本的に親族関係を基にしたグループであり、フクヤマが「いとこたちの暴政」と呼ぶ状態を生み出した。人間は親族のためなら大体のことをやる。そして、親族でない人間に対してもたいていのことをやる(レイプ、強盗、殺人)。これが世界でいつも起きている争いから、大量の人間が死亡する規模な戦争までに共通する理由となる。

親族関係の陥る罠から抜け出す方法は国家(フクヤマは中央集権化した政治的権威と呼んだ)を作ることである。これには家族のしがらみを打ち破る必要があった。国家はフクヤマが考える政治秩序の基礎となる3つの柱の一つである。政治秩序にとって強力な国家だけでは十分ではない理由は、政治的な権力だけでは親族関係がもたらす問題を解決できないからだ。それどころか、政治権力が親族関係の利益のために使われてしまうことになる。
強力な支配者は自分の力を親族の利益のために使用する。このような現象は古代世界から現在のリビアまでを考えてみれば理解しやすい。従って、国家の統治には法の支配が必要となる。法の支配によって政治権力と腐敗には制限が加えられる。しかし、法の支配自体が政治秩序を不安定化させることもある。それは必要な時に国家が決定的な行動を取る能力を削いでしまうこともあるし、非国家組織に過度の自由裁量を与えてしまうこともあるからだ。よって、第三の原理である説明責任を負う政府が必要となるのだ。これは私たちが民主政治と呼んでいるものだ。民主政体では強力な国家は維持されるが、人々は支配者が間違いを犯した場合に彼らを交代させることができる。

フクヤマは私たちが政治秩序の3つの原理をそれぞれ別のものであり、別々に機能を果たすことができるものとして扱い過ぎていると考えている。もしくは、私たちは民主政体を賞賛するが法の支配がなければ社会の分裂を深めるだけだということを忘れている。また、私たちは法の支配を賞賛するが強力な国家がなければ政治的な不安定をもたらすことになることを忘れている。しかし、フクヤマは社会全体が同じ間違いを犯すとも考えている。フクヤマは良い政治秩序と「まあまあ良い」政治秩序との間を区別している。「まあまあ良い」政治秩序は政治秩序の3つの原理のうちの1つか2つが実現し、安全であるという幻想が存在する時に成立する。例えば、古代中国で強力な、中央集権的な国家が誕生したのは、西洋よりも早かった。国家が成立した理由は、長年にわたって続く内戦問題と戦うためであった。しかし、中国に誕生した国家は強力過ぎた。国家は領主を打ち倒したが、同時に初期市民社会や説明責任という考えを壊してしまった。従って中国は政治秩序確立に関しては西洋に先行していたが、それがまた遅れを生み出したのだ。それは、強力過ぎる権力はすぐに集権化した。そして、フクヤマはこれが現在の中国政治の独裁的な側面の理由であると確信している。


もう一つの国家はうまくいった部分とうまくいかなった部分があった。その国はハンガリーである。13世紀、イギリスでマグナカルタが成立して7年後、ハンガリーにも独自のマグナカルタ制定の時期が到来した(これは「黄金の雄牛」と呼ばれる)。貴族たちが王の示威的な権力に対して法的な制限を加えることができた。それでは、どうしてハンガリーは、イギリスのように自由と憲法に則った統治を確立できなかったのだろうか?それは、貴族たちが余りにも多くのものを手にしたからだ。彼らは王を弱体化させ過ぎ、自分たちが望むものは何でも手に入れることができ、何でもできるようになったからだ。これは、貴族たちが自分たちの親族を富ますために農民を搾取することができたということである。国家の力を無力化させてしまったために、ハンガリーの貴族たちは安定した政治秩序構築の機会を失い、自分たちの力を強大化させるだけにとどまったのだ。

フクヤマは、人類社会が政治秩序の構築に成功する方法よりも政治秩序の構築に失敗することの方に興味を持っている。彼が本当に答えたいと思っている疑問は、ハンガリーがどうしてイギリスのようにならなかったのかというものではなくて、イギリスがどうしてハンガリーのようにならなかったのかというものだ。彼の答えは基本的に幸運に恵まれるかどうかというものである。西ヨーロッパの端にあるイギリスで政治秩序の構築に成功したのは、いくつかの偶然が重なったためである。宗教、法律面での改革、才能に恵まれた行政官がうまくミックスされ、それに17世紀に起きた内戦と疫病によって人々は、そうした好条件をバラバラにしてしまうのは得策ではないと考えるようになった。

フクヤマは私たちに対して、良い政治社会というものは実現が難しく、多く尾条件が揃なければならないものであることを記憶して欲しいと思っている。しかし、彼はこのことからポジティヴなメッセージを導き出している。政治秩序を構築することは偶然の要素が多いということは、そこに行きつくまでには様々な経路が存在する。必ず政治秩序を構築できるという保証がある社会など存在しない。しかし、だからと言って、絶対に構築できないという社会も存在しない。中国であってもそうだ。このような積極的なメッセージには納得できないものも含まれているが、本書『政治の起源』全体の内容は興味深いものだ。フクヤマはどっちつかずの議論を行うことがよくある。政治秩序は基本的に、数世紀にもわたる政治闘争の結果生まれた偶然の産物である。しかし、そのことを知れば政治秩序を確立することはより容易になる。それはどのようにしたら可能か?それには、自分の運を良くすることしかない。更に言えば、政治秩序の話は、「ニワトリが先か、卵が先か」の話に集約される。イギリスは1688年に名誉革命を達成したが、それは、イギリスが比較的秩序が整った社会であったからだ。そして、私たちは、名誉革命によってイギリス社会が秩序だった社会になったと教えられる。

もう一つの問題は、フクヤマガ最初に提示した2番目の疑問に対して答えを提示していないことだ。安定した民主社会が一つの様式に陥ることを止めるものは何か?政治秩序は安易な自己満足と安全を生み出す。フクヤマはこれもまた3つの原理の上に成り立っている社会にとっても問題であることは認識している。しかし、3番目の原理が希望を与えてくれると主張している。政治的な説明責任の意味するところは、政府が失敗すれば、私が政府を変えることができるということである。しかし、これは上辺だけのことで建前であり、誰も信用していない。これはまるで政府が交代するということは、根本的な変化(気候変動、債務、中国の台頭)が起きている時に、デッキチェアを動かすくらいのことのように見える。『政治の起源』は2巻出るシリーズの1巻目である。そして、フクヤマによると、2巻目は、フランス革命から現代までを網羅した内容になるということである。1巻目はフランス革命までで終わっている。 しかし、このような野心的な本にはありがちだが、解決したいと思っている基本的な問題に対して、十分な回答を出せていない。フクヤマは現代の社会科学の言葉を借りて彼が本当に興味を持っていることを説明している。彼が興味を持っているのは、どのようにすればデンマークのような国にまで到達できるのか。つまり、安定していて、反映していて、現在世界最高のレストランがある国になるにはどうしたら良いのかということである。しかし、フクヤマが本書で描写している歴史はこの疑問に対する答えとはならない。王子の出てこない『ハムレット』のようなものなのである。

(終わり)

※ウェブサイト「副島隆彦の論文教室」に掲載した宣伝文へは、こちらからどうぞ。
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by Hfurumura | 2013-10-29 21:20

ハンチントンの業績について:フクヤマによる解説

古村治彦です。このブログを長い間、放置してしまいました。誠に申し訳ございません。

ウェブサイト「副島隆彦の論文教室」の管理、翻訳の仕事などで忙しく、こちらに掲載するべきものが手つかずでした。

今回は、「フォーリン・ポリシー」誌に掲載されました、フランシス・フクヤマによる、サミュエル・ハンチントンの業績の解説をご紹介いたします。ハンチントンは2008年に他界しましたが、今でも、政治学における巨人の一人です。彼の業績は多岐にわたり、その理解は難しいのですが、フクヤマはいつものようにうまくまとめています。

ハンチントンの研究の柱は近代化批判、民主化、文化や宗教の政治への影響です。彼の業績を知ることで、昨年からのチュニジア、エジプトの反政府運動と権威主義的政権の崩壊についても考える手がかりになると思います。

それでは拙訳をお読みください。

==========

サミュエル・ハンチントンの遺産:ハンチントンの政治研究やその他の分野での業績は今日でも重要である。それは何故か。

2011年1月5日
フランシス・フクヤマ筆
フォーリン・ポリシー誌

サミュエル・ハンチントン(Samuel Huntington)の政治研究で最も重要なのは、1968年に発表した『変革期社会の政治秩序』(Political Order in Changing Societies)だ。この著作は、政治発展論の大きな理論を構築しようという最後の試みであった。この著作は、1950年代から1960年代初めにかけて一世を風靡した学問上の理論において、その重要性を持ち、理論の発展に貢献したと言えるだろう。1950年代、「近代化論(modernization theory)」が隆盛を極めた。この理論は、社会変革のための経験に基づいた、様々な学問を統合した理論を構築しようというものである。そして、この理論構築の試みは、アメリカの学問の歴史で最も野心的な試みであった。近代化論の源流は19世紀のヨーロッパで活躍した、ヘンリー・メイン(Henry Maine)、エミール・デュルケーム(Emile Durkheim)、カール・マルクス(Karl Marx)、フェルディナンド・テンニース(Ferdinand Tonnies)、マックス・ウェーバー(Max Weber)にまで遡ることができる。イギリスやアメリカの近代化の経験を基にしながら、これらの学者たちは、社会発展に関する一般法則を発見しようと努力した。

ヨーロッパの社会理論は二つの世界大戦によって完全にその正当性を失った。ヨーロッパの社会理論が生み出した考え方は、アメリカに移植され、第二次世界大戦後、アメリカの学者たちによって洗練されていった。彼らは、ハーバード大学の比較政治部、マサチューセッツ工科大学の国際研究センター、社会科学研究委員会の比較政治分科会に所属し、活動していた。 ウェーバーの学問的な弟子であるタルコット・パーソンズ(Talcot Parsons)が指導していた社会関係学部は、経済学、社会学、政治学、人類学といった社会科学の各分野を統合することを目指していた。

1940年代末から1960年代初めにかけて、ヨーロッパ各国が所有していた植民地はどんどん独立し、植民地帝国は崩壊していった。そして、世界には、第三世界に所属する発展途上国(the third or developing world)が出現した。こうした新しく独立を果たした国々は、近代化の意欲を備え、旧宗主国に追いつこうとしていた。エドワード・シャイルズ(Edward Shils)、ダニエル・ラーナー(Daniel Lerner)、ルシアン・パイ(Lucian Pye)、ガブリエル・アーモンド(Gabriel Almond)、デイビッド・アプター( David Apter)、ウォルト・ホイットマン・ロストウ(Walter Whitman Rostow)といった学者たちは、新たに独立を果たした国々が多く出現したこの状態を社会理論を試すための実験室だと考えていた。また同時に彼ら学者たちは、自分たちが発展途上国の生活水準の向上や政治システムの民主化の手助けができる絶好の機会であると捉えていた。

彼らが主張したのは、アメリカナイズされた近代化論であるとするならば、その中身は、楽観的で、全ての良いことが一緒に起こるというものだった。経済成長、社会的動員、政治システム、文化的価値は一気に改善されるというものだった。ウェーバーが主張した脱魔術化(disenchantment)、資本主義の鉄の檻、デュルケームのアノミー(anomie)といったコンセプトに含まれる悲劇的な側面は全く考慮されなかった。社会の変革の様々に異なる面はつながっている。

『変革期社会の政治秩序』はこうした楽観的な前提に挑戦するものとして出版された。第一に、ハンチントンは政治的不安定さは政治発展と同じくらい起こりやすいものであると主張した。新しく独立した国々では社会的、政治的無秩序が増大していったことは経験上、明らかなことであった。第二に、ハンチントンは、近代化のプラスの面はその意図とは違う結果をもたらすことがある、と主張している。特に、社会的動員が政治機構の発展よりもその速度が速くなると、国民の間に不満が巻き起こる。彼らは民主的な政治体制によって政治に参加できると思っていたのに、それが不可能だということに気づき、それが不満を巻き起こす
ことになるのだ。

『変革期社会の政治秩序』の中で、ハンチントンは、1968年の時点で、元植民地の新しく独立した国々のほとんどで、政治発展が起きていないことを指摘している。世界各国で、クーデター、内戦、反乱、政治的不安定が蔓延していた。ハンチントンは、社会的動員のペースが、政治機構の持つ人々を政治に参加させる能力を超えてしまったら、衛兵主義(praetorianism)、政治的破壊、政治的衰退が起こると主張している。簡単に言うと、近代化によって民主的な政治システムが導入されても、それがうまく機能しなければ、人々の不満をかき立て、結局、そのシステムが不安定になり、崩壊してしまうということなのだ。

『変革期社会の政治秩序』は、近代化論を最終的に否定し、その有効性を否定した著作であったと言える。この著作は、近代化論に対する挟み撃ち攻撃の一方の攻撃者であった。もう一方の攻撃者は左翼からの批判(訳者註:従属論や世界システム論)であった。彼らは、「近代化論者たちは、ヨーロッパや北米の社会発展モデルが世界共通のもので、人類はこれを追いかけるはずだ、という欧米中心的な考えを後生大事にしている」と批判した。アメリカの社会科学は、近代化論の失敗により、全てをつなぐ大きな、統一理論を失い、現在まで続く方法論の「バルカン半島化(Balkanization)」状態に陥ってしまった。

ハンチントンは、現実政治を長年観察し、それを基にして、「政治的秩序自体は大変に素晴らしいものであるが、近代化の過程で政治的秩序が自然発生的に生まれるわけではない」という実際的な主張を行った。彼は続けて、「現実はそんなものではない。政治的秩序がなければ、経済的発展も社会的発展も成功しない」と主張した。近代化は、政治秩序や経済的な成功を収めてから民主化するという順序立てで行うべきだ。民主政治体制が確立していない段階での、早すぎる選挙のような政治参加の増加は壊れやすい政治システムを不安定にするばかりだ。ハンチントンの発展についての戦略は、「権威主義的移行(authoritarian transition)」と呼ばれるものだ。それは次の通りとなる。まずは、近代化された独裁政治によって、政治的秩序、法の支配、経済的成功と社会的成功を導くための条件を整える。このような条件が整えば、近代化のもう一方の要素である民主政治体制と人々の政治参加が実現する。ハンチントンの教え子であるファリード・ザカーリアは、2003年に『自由の将来』という本を書いた。これは、ハンチントンの主張を現代に適応するように改良したものだ。

このハンチントンの主張は、今でも取り上げる価値のあるものだ。アメリカはアフガニスタンとイラクで国家建設事業を行ったが、無残に失敗した。多くの人々は発展の順番をきちんと踏んでいくべきだと言ってきた。「きちんとした国家建設を行ってから民主化し、政治参加を拡大させよ」と言ってきた。

『変革期社会の政治秩序』はハンチントンの初期の業績の一つである。そして、彼はこの著作で政治学者としての名声を確立した。その後も彼は、比較政治学の分野で多くの業績を残した。民主的移行(democratic transition)に関する著作は、冷戦(Cold War)終結直後の時期に大変な評判を呼んだ。民主化に関する著作発表に至るまでの過程は次の通りである。1984年に、ハンチントンが学会誌「ポリティカル・サイエンス・クォータリー」誌に「これからより多くの国々が民主化するか?」を発表した。ハンチントンは、1970年代から1980年代にかけてのスペイン、ポルトガル、南米諸国の民主的移行について調査、研究を行った。そして、ハンチントンは、「これからしばらく、構造的な、もしくは国際的な条件が大きく変わらない限り、世界中で権威主義からの移行はそこまで起こらないだろう」という結論を出した。この論文が書かれたのは、ベルリンの壁崩壊が起きる僅か5年前であった。ハンチントンは共産主義の崩壊後、考えを変え、『第三の波』(The Third Wave)という著作を発表した。この第三の波とは、ハンチントンが1970年代から1989年の時期を一つの時期としてまとめて呼んでい
るものだ。

『第三の波』は、民主化について書かれた著作である。しかし、比較政治の分野で注目されてきた、それまでの民主化についての業績とは大きく異なる種類の研究であった。民主化については、シュミッター・オドネル・ホワイトヘッドの研究に代表される「アクター」の研究と、セイモア・リプセットやシュボウスキーに代表される民主的な安定の構造的な条件についての研究の2つの流れがあった。ハンチントンは、「民主化の第三の波はキリスト教国で起きており、20世紀末の民主化のパターンは宗教的な要素が大きく影響している」と主張した。カトリックの国々は、プロテスタントの国々で起きた民主化の第一の波に追いついてきたと言える。それは、資本主義革命がプロテスタントの国々で起こり、その後カトリックの国々に波及していったのと同じだ。

しかし、民主化の第三の波は、決して様々な文化を超えて起きている近代化の過程のことではない。近代化は文化の違いなどは関係なく、全ての社会で起こることだ。しかし、近代化は、欧米のキリスト教文化から生まれた文化的価値観から生まれた。1970年代前半からの民主政治体制の拡散は、文化を超えた、人類共通にアピールがあったから広がったのではなく、アメリカやキリスト教国の力と権威に多くの国々の人々が憧れたからなのである。

『第三の波』が出版された当時ははっきりしなかったが、民主化の文化面に関する主張は、その後、『文明の衝突』(The Clash of Civilizations)と『分断されるアメリカ』(Who Are We?)、更にはローレンス・ハリソンとの共編著『文化こそが重要だ』(Culture Matters)でも繰り返し議論されてきた。ハンチントンは、『変革期社会の政治秩序』に代表されるように、近代化論を否定してきた。彼は、国内政治の発展と国際関係における文化的な価値と宗教の優位性の存在を強く信じていた。文化的な優位性というハンチントンの主張とは反対に、グローバライゼーションは、中身のない薄ぺらい世界市民主義者である「ダボス人(Davos men)」を生み出すような底が浅い動きである。そして、グローバライゼーションが深化しても世界平和と繁栄が訪れるとは保証できない。そして、アメリカは世界的な民主化に向けての動きの前衛であり、その象徴ではない。アメリカの民主政治が成功しているのは、「アングロ・プロテスタント」社会という起源に基づいているからだ。ハンチントンは亡くなる直前まで、宗教が世界政治に与える影響についての研究に注力していた。

ハンチントンは、「近代民主政治体制は歴史的に見て西洋のキリスト教から生まれた」と主張しているがこれは正しい。しかし、これは何も斬新な考えではない。トクビル(Tocqueville)、ヘーゲル(Hegel)、ニーチェ(Nietzsche)のような多くの思想家たちは、「西洋の民主国はキリスト教の原理である普遍主義(universalism)の世俗化の結果である」という観察を行っている。しかし、民主政治体制が特別な歴史状況から生まれたと言って、世界の非西洋の国々で民主政治体制を確立できない、民主政治体制を世界中で実現できないということはない。民主政治体制はある程度世界に広まっているが、それは、民主政治体制が、支配者たちに対して国民への説明責任(accountability)を果たさせる効率的な方法であるからだ。決して文化的な優位性があるからだけではない。中国が民主国家となる場合、それは、中国国民がアメリカの民主政治体制を賞賛し、それを真似たいと望むから、民主国家になるのではないだろう。それは、中国が抱える政治的腐敗、環境汚染、社会的な不正義の蔓延といった諸問題を、指導者たちが説明責任を果たさない非民主体制では解決できないと判断したからであろう。

『分裂するアメリカ』において、ハンチントンは、「アメリカのアイデンティティは、アメリカ合衆国憲法(the Constitution)とアメリカの信条(American creed)に対する忠誠心によって規定されるのではない。それは、『アングロ・プロテスタント文化』と私が呼ぶ宗教的なルーツを持つものである」とはっきりと主張した。『分裂するアメリカ』の中でハンチントンは、「アングロ・サクソン・プロテスタントの文化を持ったイギリス人ではなく、スペイン、ポルトガル、フランスのカトリックたちによってアメリカが建国されていたら、現在のような合衆国ではなく、メキシコ、ブラジル、カナダのケベック州のようになっていただろう」と書いている。これは歴史的に正しい考察と言えるだろうが、一つの疑問も生じる。それは、この歴史的事実は、そうではなかったという仮定の場合と比べて、現在のアメリカ政治に大きな違いをもたらしているのだろうか?というものだ。ハンチントンは『分裂するアメリカ』で、一章を割いて、有名なプロテスタントの労働倫理を取り上げている。このプロテスタントの労働倫理はアメリカの文化の一部であり、アメリカのアイデンティティの柱となっている。しかし、それでは、現在のアメリカにおいて一体誰が勤勉に働いているかと言われると、古くからアメリカに存在するボストン・ブラーミン(Boston Brahmin)と呼ばれるワスプ(WASP)でもなく、アパラチア山脈からテキサス、アメリカ南西部に広く居住しているスコッチ・アイリッシュ(Scotch-Irish)と呼ばれる人々でもない。ボストン・ブラーミンは、自身の信託基金からの支払いによって生活している。スコッチ・アイリッシュは、アメリカの人種・民族別の統計では、一人当たりの収入が最低のグループに入っている。労働を尊ぶというアメリカ文化の建前は、ロシアから来たタクシードライバー、韓国出身の商店主、メキシコ出身の日雇い労働者たちが担っていると言える。労働を尊ぶということは世界中にアピールし、世界中で受け入れられている。

ハンチントンの主張は常に強力で、ハンチントンが持つ大変な学識と知識が溢れ、説得力を持つものだった。もしハンチントンの主張に合意できない部分があっても、彼の主張に真剣に耳を傾け、真面目に考え込んでばかりいた。ハンチントンの主張は、アメリカ政治、防衛政策、民主的移行、アメリカにおけるアイデンティティについてと幅広いものであり、議論のための材料(言葉と組み立て)となるものだった。彼は研究者として輝かしい業績を残したが、教師としても素晴らしい業績を残した。彼の教え子たちは政治学の全ての分野で革新をもたらした。彼は、初期の著作から晩年の著作まで、常に厳しい批評家であったが、それは「重要で、しかも根本的なことを言っておかねばならない」という信念があったからだ。これからしばらくはハンチントンのような学者に出会うことはないと確信を持って言える。

※この論文は、2008年の「アメリカン・インタレスト」誌の記事と、『変革期社会の政治秩序』の2006年版の前書きを基にしたものである。

(終わり)
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by Hfurumura | 2011-02-13 15:28