翻訳、評論の分野で活動するSNSI研究員の古村治彦のブログ
by Hfurumura
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福島調査報告記②

昼食後、タクシーは海に向かい、請戸地区に向かいました。ここは漁港の近くに多くの民家が立っている地域だったのですが、家が根こそぎ破壊され、爆撃でも受けたのかというほどでした。あたり一面が瓦礫が多い尽くしていました。そこで一匹の犬に出会い、昼食の残りを副島先生やっていると、14:07に浜通り地方を震源とする震度6弱の地震が発生しました。中田研究員が副島先生にすぐ車に乗って退避するように大声で促し、私たちはすぐにその場を離れました。

その後、国道6号線を北上し、南相馬市(人口:約7万3000人)に入りました。この南相馬市は、2006年に原町市と相馬郡の小高(おだか)町、鹿島(かしま)町が合併して誕生した市です。原町市は伝統行事「相馬野馬追(そうまののまおい)」で有名です。この南相馬市は、20キロ圏内の避難指示地域と20キロから30キロの屋内待避地域とに分けられ、苦労しています。市長さんがYouTubeで世界中にメッセージを発信し話題になりました。私たちは小高地区を通過しましたが、ここも津波で大変な被害を受けていました。数多くの船が腹を向けて田んぼの真ん中に横たわっている、自動車が潰れて用水路に突っ込んでいるといった光景が何キロも続いているのです。途中で防護服を着た自衛隊と機動隊の捜索隊の姿も確認できました。この地域では、防護服を着ずに、タクシーで走る方が異様な姿となるようで、こちらを見る隊員たちもいました。

その後、14;34、20キロ圏内の検問に差し掛かりました。ここも警視庁の警察官が立っており、「ここから出るともう入れません」という注意を受けただけで進むことができました。約3時間、20キロ圏内を走る結果となりました。20キロ圏内を超えると人々の生活があります。コンビニやガソリンスタンドは営業していました。ただ、鮨屋やレストランの多くは営業をしていませんでした。自動車が多く走っていますが、田村市と比べると、営業している店がかなり少ない印象です。その後、南相馬市立病院の前で計測したところ、値は毎時「2.1」マイクロシーベルトでした。

(20)14:45 南相馬市立病院前 「2.1」マイクロシーベルト

私たちは原町地区を目指し、南相馬の人たちの話を聞こうということになり、JR原ノ町駅まで向かうことにしました。その途中、営業をしていた喫茶店「喫茶憩い」に入り、休憩を取ることになりました。ここでお店のご主人や地元の人たちと話をしました。副島先生が「私たちは郡山から原発の正門前まで行って、今北上してきたところです」と言うと、地元の人たちは興味を持ってくれ、色々と話をしてくれました。その内容を書きます。①今は物資の不足は感じない、大変だったのはガソリンと灯油。②国会議員や福島県の佐藤雄平知事が南相馬市まで来ているという話を聞いたことがない、③南相馬が計画非難地域に入ったのか分からない、④どこに逃げればいいのか、⑤南相馬市が用意したバスで避難する人は草津温泉に行っているそうだ、⑤自分たち(喫茶店のご主人)も地震直後に避難したが、避難所にしても親せきや知り合いの家にしても、1週間が限度だ。⑥どうしようかと思っていた、2011年3月29日に喫茶店の前のコンビニが営業を再開したので、自分たちも3月30日にまた営業を再開した。私たちは話を聞かせてくれたお礼を言って店を出てタクシーに乗っていると、お店の女性が追いかけてきて、「副島先生のことが掲載された雑誌を見せて欲しい」ということだったので、1冊あげて別れました。別れた後に原ノ町駅近くで計測した値は、毎時「3.1」マイクロシーベルトでした。

(21)15:27 JR原ノ町駅付近 「3.1」マイクロシーベルト

その後、南相馬市の北にある相馬市に向かいました。途中で原町火力発電所(はらまちかりょくはつでんしょ)を通過しました。また途中、サテライト福島という競輪の場外者券売り場施設を通ったところ、自衛隊が滞在しているらしく、トラックやテントが見られました。

私たちは相馬市(人口:約3万8000人)に入り、相馬市の松川浦(まつかわうら)地区に入りました。ここは相馬港に隣接し、潮干狩りの場所として大変人気のある場所だそうです。また、海苔の養殖も大変盛んであるということでした。ここの津波の被害の状況も惨憺たるものでしたが、自衛隊や地元の人々が必死に復旧作業を行っていました。ここでも厚さ1.5メートルはあるコンクリート製の堤防が破壊され、建物も鉄骨だけ残して立っているという状況です。漁船のための重油が入っていたタンクもひしゃげているという状況でした。そして、この漁港から数百メートル行った住宅地では言葉を失いました。目の前の状況に何も言葉が出ませんでした。この松川浦で計測した値は、毎時「2.4」マイクロシーベルトでした。

(22)15:58 相馬市松川浦 「2.4」マイクロシーベルト

その後、相馬市内を走り、相馬消防署前でも計測を行い、その値は毎時「2.6」マイクロシーベルトでした。

(23)16:37 相馬消防署前 「2.6」マイクロシーベルト

その後、私たちは30キロ圏外でありながら、放射能物質の検出量が多い、飯舘村(いいだてむら、人口:約6200人)に向かいました。相馬市から山を越えて行くのですが、道路は綺麗に舗装されています。中田研究員と私は車に少し酔いながら座っています。17:13に飯舘村佐須(さす)という地区に着きました。外は風が冷たく、晩秋のようでした。私たちが乗っているタクシーの運転手さんが道に迷って路肩に停まっていると、一台の自動車が停まってくれました。

その方は、草野地区の民生委員の方でした。そしてその方からお話を聞くことができました。飯舘村では前日の政府による「計画非難」地域に指定されたことで、住民たちが緊急に集まることになっているということでした。飯舘村の各地区で小学校などに集まり、住民集会が行われるということでした。4月14日は草野地区で集会が開かれ、4月16日にはまた別の地区で集会が開かれるということでした。この方は民生委員ということで、地震直後から、地区の老人たちの安否確認や世話を行うために自動車で走りまわっていたそうです。ですから、ガソリンの不足は本当に堪えたそうで、朝5時から並んでガソリンを手に入れるという状況だったそうです。他の物資に関しては不自由はしていないということでした。

この民生委員の男性は40年以上前、福島第一原発が建設される際に、「自分は反対だった」と私たちに語りました。その理由として、原発に関して、ある専門家から、「風の動きを考えると、福島第一原発で何かあったらこの飯舘村に放射能物質が飛んでくることになる」ということを聞いたのだそうです。これは重要な話です。40年以上前から、原発事故が起きれば飯舘村に影響が及ぶということが既に研究結果として出ていたことになります。

この民生委員の男性には孫がおり、その孫のために靴を買おうと福島市まで行ったそうです。そこで、「飯舘村から来たんだけど」と店員に行ったところ、近くにいた店員2人がぱっと離れたという話をしてくれました。テレビでは報道されませんが、インターネットではこうした風評による差別の話はセンセーショナルに書かれていますが、そうした状況があるのは事実のようです。私たちの乗っているタクシーの運転手さんは「同じ県みんなのに、なんてことをするんだ」と驚いていました。そして、「私が住む郡山でも避難してきた人たちでどこから来たか言いたがらない人たちがいるんですよ。そういう扱いを受けたんだね」という話をしてくれました。寒い中、話を聞かせてくれた民生委員の男性にお礼を言って別れた私たちは、飯舘村の役場がある伊丹沢(いたみさわ)を目指しました。この佐須地区で計測した値は、毎時「9.3」マイクロシーベルトでした。これは確かに相馬市や南相馬市での値よりも高いものでした。また、途中、飯舘村草野地区で計測したところ、毎時「7.9」マイクロシーベルトでした。

(24)17:13 飯舘村佐須地区 「9.3」マイクロシーベルト

(25)17:40 飯舘村草野地区 「7.9」マイクロシーベルト

私たちは、飯舘村役場に到着しました。役場の駐車場にはNHKの中継車も来ていました。飯舘村役場は平成6年に総工費10億円で作られた、大変立派な建物です。村役場の玄関わきには、支援物資である水の入った段ボールが山積みにされていました。ここで地元の世話役の男性に話を聞くことができました。この男性はまず、「この村には6200人もいて、牛が2000頭もいて、どこに避難するんだ」「高齢化が進み、70歳以上の年寄りが1000人もいるんだ」と教えてくれました。「ここら辺は夜がグッと寒くなって風の力が落ちてそれで放射性物質が落ちてくるし、雪が降ったから、高い値が出るんだ」という話をしてくれました。そこで皆の眼のまで測定をしてみました。その値は毎時「7.8」マイクロシーベルトでした。

(26)17:45 飯舘村役場前 「7.8」

私たちが役場の建物に入ると外国人が数名います。聞いてみると、アメリカの三大ネットワークの1つであるABCのクルーでした。20:00からアメリカに向けて生中継をするということでした。テレビで見たことがある有名な記者が中継の準備をしていました。役場の2階の会議室では村議会が開かれていました。

丁度その時、テレビでは菅総理によるメッセージが生中継されていました。しかし、役場にいる人たちでそれを気にする人は誰もいません。自分たちが運命を決められてしまう側の人たちは、それに対応するために、奔走していました。

私たちが2階にいると、先ほど、話をしてくれた男性がやって来て、近くのソファーに座りました。「疲れたよ、もう限界だ」と私たちに話しかけてくれました。そして、色々な話をしてくれました。飯舘村に住む一男性の話ですから、マスコミで流されることはないでしょう。しかし、私は、書き留めたメモを基にして、その話を再現してみたいと思います。

男性:「この村は昭和31年に二つの村が合併してできたんだ。それから50年、村づくりをやってきた。例外に何度も見舞われて、それで畜産に賭けたんだ。(それでは80年代の牛肉・オレンジの開放の時も大変だったでしょう、と私が訊ねると)そうだ。どうやって生活しようかと思ったほどだ」

男性:「日本性はダメだ。アメリカとフランスに原発事故の対応を任せて、止めてもらった方が良い。経験があるんでしょ。そして、もう福島第二原発も止めて欲しい」

男性:「(町長室を指さして)町長は今来客中だ。本当に疲れていて、思考力、判断力が落ちてしまう。もう限界なんだ。石原都知事は取り巻きがしっかりしているから良いな」

男性:「東京の人で、東京電力を使っている地域の人で、分かった、助けると言って駆けつけてきた人は誰もいない。知事も来ないしな」

男性:「地方自治体はものを言えねばダメだ。こんな地方自治体になってしまったのは、はっきり言って、自民党政治のつけだ」

男性:「日本人らしさはもうなくなってしまったんだな。俺たちは見捨てられたんだな」

この地区の世話役の男性から出てくる言葉を書きとめるだけで、私は何も言えませんでした。出発時刻が近づき、私はお礼を言って別れました。

そして、18;25、飯舘村役場を出発し、郡山を目指しました。これで、今回の調査と取材は終わりました。

ここからは、私が感じたことを書きたいと思います。

今回の大震災では、地震と津波、そして原発事故という複数の災害が発生しました。そのうち、地震と津波は天災であり、これまでの人々もそれを生き抜いてきたし、今は地震警報や津波警報もあり、ある程度の備えもできます。また余震が何度も発生していますが、震度6以上の大きな揺れであれば建物や道路が壊れることはあるが、それ以下なら何とかなるという、積極的な意味での「慣れ」が出来てきました。

それでも、やはり地震、津波の被害には言葉もありませんでした。自然の恐ろしさを噛みしめました。しかし、「のど元過ぎて熱さ忘れる」という言葉もあるように、人間は忘れやすくできているようです。しかし、爆撃後のような光景を私は忘れないでおこうと思います。

問題は原発事故の方です。事故が起きて1カ月、様々な報道がなされ、色々な意見が出されてきました。私もそれらに迷っていたと思います。しかし、本当に
「百聞は一見に如かず」という言葉の通りです。行ってみて、現実が分かるということがあります。私は、今回現実を知るために、今回は原発の正門前まで行きました。そのために副島先生に前々からお願いしていました。私が行ってみて分かったことは、「放射能は恐ろしいものであるが、過度に恐れる必要はない」ということです。そして、「福島の人たちは放射能物質がほんの少しではあるが大気に漂う中で、日常生活を送っている。東京でワーワー言うことに意味はほとんどなく、何か言うなら福島の人たちの側に立った内容を話すのが当たり前のことだ」ということです。

私たちのように福島に行き、原発の正門前まで行くことは多くの人はできないし、する必要もないことです。しかし、ただ、「怖い怖い」とか「絶対に安全だ」と闇雲に言う前に、出されるデータを使い、自分が判断することが大切だと思います。何かに頼るだけでなく、自分で材料を集めてそれを使って判断することは私もできていなかった、と反省しています。

私は26回のガイガーカウンターを使っての測定結果の数値を報告として書きました。この値をどう使うかは読んで下さる方々がお考えになることです。私は、この数値を見て、「過度に怖がる必要はない」と考えるようになっています。副島先生のように言い切りたいのですが、私は先生にも注意を受けるほどの、「臆病者」です。しかし、その私でも、「過度に怖がることはない」と考えるようになりました。自分で情報を集め、それを基に判断していけば、「過度に」という言葉も取れて行くでしょう。

「過度に怖がるのでもなく、過度に楽観するのでもなく、自分が集められるデータや材料を使って、自分の頭で判断する」ということは、今回の原発事故に対する態度だけでなく、これからの生き方の指針になると思います。この機会を使って、私もこの指針を持って考えることを始めたいと思います。

以上、大変長くなりましたが、調査・取材報告といたします。最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

(終わり)
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by Hfurumura | 2011-04-24 01:42 | 福島
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